My fancy hiheels と Last train home

  大陸に取材した記録片を連続して”聊聊”した。近くに住んでいる李さん(最近、協会に顔を出してくれるようになった近所の人)所蔵の記録片の中から選んだものだ。どちらも”西洋”に移住した華人の作品のようだ。描かれる”中国人”や”台湾人”には、どことなくオリエンタリズム(こういう使い方もあるようなので使ってみるとして)を感じてしまう。作り手がこれを見せたいと思うそれぞれの場面、感情(の表出)、表情の一つ一つ、その解釈の流れに、一方で中国として対象化されると同時に他方でユニヴァーサルな人間像としてハリウッドドラマ化する―そのような目線が感じられたのだ。
 これはもちろん見る側(私)の目線の問題でもあることを意識しないわけではない。中国(大陸)を自分達ではない何者かとして対象化すると同時に、人間ドラマにはハリウッド・スキームを適用してしまうことから逃れられない私(たち)というものが、こうした映画に投影されてしまうのだ、と言われたら、それはないよと言い切って防御の弁を滔々と述べ立てる元気はない。
 こうした作品は、何億という中国人というような言い方で蟻のように顔のない集団として表象されることが多い”中国人”を「人間ドラマ」の中の顔を持つ人々として描き出そうとする点で、もちろん、評価されるべきだろう。しかし、その点だけで評価されるのだとしたら、なんとも次元が低すぎる。人間を人間として描いただけで評価されるというのでは、作り手もかわいそうだろう。(断っておかなくてはいけないが、My Fancy・・の方は、あえて人間ドラマを避けようとしているが、あまりうまく行っていないようだ。全体にちぐはぐ感が否めない)
 問題は、「人間として描く」という当たり前の行為における”人間”(あるいは”人間らしさ”)というものが基本的にどのようなものとして”ある”のかということだと思う。そんな小難しい言い方をしなくてもいい。何に人間性を感じるか、人間らしさを感じるか、という感じ方そのものがハリウッド的だから気になると言ってしまおうか。前述したように、しかし、それが作り手側の問題なのか、見る側の問題なのか、共同責任なのか、考えさせられる作品だった。(Awil Kazuo)
 
 

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