国家としての台湾
現在この文を書いているのは、2016年の総統選の二週間前です。テレビはずっと各地の総統選の戦況を放送し続けました。こういう時は立候補者と民衆の一番近い時です。この時、沖縄に米軍基地の反対運動をしている人がたくさんいますが、台湾の国会議員立候補者でも、大統領の立候補者でも、一人でも沖縄のことを口にしませんでした。
台湾の住民から始め政治家は国家の関心する議題は、経済問題と領土問題しかなかったようです。私も昔はそうでした。いつか台湾は国として世界で認められればいいと、一度も台湾は国として、世界の他の場所に何かできることを考えもしなかったです。新聞の中で他国のことが出たとしても、第三者みたいな感じで、受けて、聞いて、唯一関心になるのは他国に台湾の人はいないかだけです。これから旅行に行けるか、台湾の安全には影響があるか、台湾の株市場には影響がないか、ガソリンの単価は変動ないかとしか思い出せませんでした。他には自分とまったく関係ない感じで、新聞が終わったら、この事件も解決されたような存在でした。
私は一度も沖縄にいったことがなくて、沖縄に対して、ネットや学校の授業や、本や講座でしか接触したことありませんでした。私は台湾の一人の国民として、沖縄は私に対して何かの意味をするかをまだ考えたことなかったです。
比較的に、世界の中で今は平和の東亜では、台湾人として、歴史問題と民族問題にあった台湾人には、現在沖縄にあったことと比べたら、環境破壊、植民地問題、戦争の共犯者で悩んでいる、戦っている方よりもましとは思いますが。今の香港だと、香港の人は自発的に中国から極速度に侵入する人権自由及び文化の損害と戦おうとしてます。この視点から見たら、台湾は穏やかな生活で、その自覚を無くしていたでしょう。
例えば、高橋哲哉さんの本の「犠牲のシステム」では、世界の角度から見れば、台湾はずっと違う政権の付属品です。こういう付属関係は、台湾の違う民族や、島、主流や不主流、利益者や虐める住民の中から見えてきます。これは犠牲というより、競争の中での勝ちと負けの関係のような感じでした。統治者の変更、植民地の立場、資源がない、多民族、50年間の戒厳と教育がこの群島の国民性を作り出してきました。 「軍事化を無くした」ようになって来た台湾人の感覚ですが、民主主義で声を出せるようになって来た雰囲気ですが、やはりある価値観や意識の中でしか声を出せなかったような気がします。台湾に入ってくる情報は少なくないと思いますが、これらの情報を理解して自分のものに消化することができなかったため、世界への連帯を感じなくなったかもしれません。
国家としての台湾はどのように沖縄や濟州の米軍基地問題を考えるでしょうか。根本的には、世界の他の国からの圧力とは一緒です。台湾は完璧な国ではありませんが、私達はどういうような国になりたいのか、また私達ができた国がこの世界の他の国にどういうような力になりたいのかになります。台湾は政治と軍事と強い国の間に挟めれて、かえって安定すればいいみたいな保守的な国民性になったかもしれませんが、力を出したい人を集めれば、いつか大きな力になるではないかと思います。(陳冠文/翻訳:陳伊品)

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