北から南へ, そして, 【石原真衣】

2008年霧社抗日記念碑にて
 2008年の夏, セデック族が住むスヌイ村に約一か月滞在した. Eaphetのプロジェクトの一環だった. 当時の私は, 自分のアイヌ性(※アイヌ民族は, 主として北海道で暮らす日本の先住民族)に「?」マークの状態だった. 「アイヌとスヌイの若者の交流」という名目で訪れたが, そもそも, 自分がアイヌなのかわからずに参加した. わからないなら, 来るのはおかしい, と思うだろうか. 私は, それがある側面においては, 〈アイヌ〉の現状なのだと思う. あっという間に11年. スヌイの長老教会70周年のお祝いに参加するために, 再び村を訪れた. あのときのスヌイと, 今のスヌイ. あのときの私と, 今の私. そして様々な場所. 私は, つながりをみつけ始めている



あのとき, 私は, 安定した教師という職を離れて, 大学院に入学しようとしていたところだった. 「アイヌであること」を隠していれば, 私の人生は, とても愉しく, 充実していた. それなりの収入と, 社会的な立場, たくさんの友人, 家族. サッポロでアーバンライフを謳歌し, 溢れる肯定感と, 達成感. なのになぜ, というよりも, だからこそ, だったのかもしれない. 私は, 自分が逃れることができないものから, 逃げたくない, と強く思うようになっていた



アイヌの出自をもつことは, とても不自由なことだった. 母から, 祖母がアイヌだったと聞かされたのは, 12歳のとき. 正直、知りたくなかった. 日本は表面上、均質性が高い社会である. 「違う背景」を持つことは, とても生きづらいことだった. 台湾原住民の現状について, 私はとても限定的な情報と知識しかない. しかし, 2008年に私がスヌイで経験した世界は, 北海道アイヌの現状とは, かけ離れたものだった. 



まず, 「村」がある. そこは, 原住民が暮らす場所である. 北海道において, アイヌがアイヌ同士と共に暮らす場所は, 150年前に失われた. 圧倒的な力学を携えて, 〈日本人〉は, 北海道に入植した. そのときの「開拓のリーダー」は, 琴似屯田兵である. 私の父方の出自には, このリーダーたちがいる. 琴似屯田兵をはじめ, ほとんどの場合, 何らかの事情を携えて, 入植者たちは, 北海道へと移り住んだ. そして, アイヌは, あっという間に, 取り囲まれ, 生活の場や文化を失っていった。私は, アイヌを駆逐した人びとと, 駆逐されたアイヌの両方の歴史を背負っている. 




台湾でも, 原住民が台北や高雄や台中などの都会で暮らすのは, 大変なことだろうか. 「原住民であること」を隠したりするだろうか. 原住民の暮らしは, 困難であろうか. たとえそうであったとしても, 私は, スヌイの村がとても眩しかった. それは、原住民同士が, 安心して, 「山のことば(※原住民言語)」を話せたり, 教会の礼拝で, 民族衣装を着たり, 踊りを踊ったりできる. しかも, それが, 自分の暮らす場所である. 私の曽祖母や祖母が, このような暮らしを実現できていたら, どれほど, 安心して暮らせただろう. 



私の曽祖母は, 唇のまわりに入れ墨を施したアイヌの女性だった. 1904年生まれ. この時期に, 北海道で行使された植民地主義と, 台湾で行使された植民地主義はどれほど, 同じで, どれほどちがっただろう. 日本の名前を持ったアイヌの曽祖母と, 日本の名前を持っているスヌイのお年寄りの顔が重なる. あのときの私は, 両者の物語を知らず, そして, そのつながりを考えることもできなかった. 今の私には, 時間と空間を行き来できる. 大学院で学んだ10年と, 100年にわたる家族史を書き上げたおかげだ. 断絶したものがつながりだす. 日本と台湾. スヌイと北海道. アイヌとセデック. ピーアンさんと曽祖母のつる. つよい物語が, よわい物語を飲み込んだりしない. つながりは無限に続く. つながりが増えすぎて, 何かが何かを回収したりできない. 少なくとも, 私の世界では, 物語に優劣は, ない. 
左から筆者バツ君師母ペト牧師スヌイにて



ペト牧師とスームー(師母)は, 変わらず温かった. お互いに言葉がわからず, コミュニケーションは不自由だ. でも, 言葉こそが人間を不自由にしているのかもしれない. 私たちは、言葉を介在させずに, いつも, 心でつながっている. 中文と日本語と英語と, 少しの「山のことば」で, 私たちは話す. 複雑な話が必要なければ, 言語は必要ない. 二人と私のあいだには, 複雑な話はなかった. お互いに, 好ましく思っている. それだけなのだ. その気持ちは, 10年経ってもまったく, 色あせることがなかった. 



あのときの私は, スヌイのお年寄りたちが, 日本語を話すことにとても驚いた. 日本統治時代に関する知識がなかったのだ. そして, それよりも, お年寄りたちが, 嬉しそうに日本語を話すことに, 驚いた. どのような気持ちなのだろう. 臆病な私は, あのときも, いまも, それを聞くことができない. 自分の先祖が属する国によって, スヌイのお年寄りたちの暮らしが, 一方的に変容された. その事実に向き合うということが, どういうことなのか, いまだにわからない. 謝ればいいのか. 心を痛めて涙を流せばいいのか. それとも, そのどれもが烏滸がましい行為なのだから, ただ、黙って, 反省や哀悼の意を持ち続ければいいのか. いまの私には, わからない. わからない自分を恐れずに, 考え続けたい. 



今回の滞在では, スヌイと, 象カフェ, 東海大学で, 講演させてもらった. それぞれに, 充実し, 学びが深い機会だった. スヌイでは, もっと若者に話を聞いてもらいたかった. しかし, 普段はそれなりに親しくしてくれている若者たちが, 講演を聴きにこなかったことに, 先住民が抱える問題群への彼ら・彼女らの関心の薄さも読み取ることができるのかもしれない. スヌイでは, 文化も, 土地も, 失われてはいない. 一応は, 政府が原住民への政策を講じているし, 緊急で対応する事案がなければ, 政治経済・歴史的なことがらへの関心をもちにくいのだろう. ペト牧師は, 講演のあと, 随分と褒めてくれた. 普段は, ことばでのコミュニケーションが不自由な私たちが, 複雑な問題について十分に議論しえたのは, 通訳をつとめくれた李先生と, バツくんのおかげである. ここで, 感謝を述べたい. 
象カフェで、通訳はカリカリさん.




象カフェでは, 原住民問題のみを焦点化せず, 「われわれ」を問うの問題として, 私の物語を講演した. 通訳は, カリカリ. 言葉の響きがかわいい. カリカリ. あちらこちらと話が飛んでいく私の話を丁寧に通訳してくれて, ありがとうございました. 講演のなかで, 人びとに尋ねた. あなたにとって, 「われわれ」とは誰ですか. 台湾人, 原住民, 日本人が, そこにはいた. それぞれの「われわれ」について, 考え, 語ってもらう機会を得た. 人種や民族の問題が立ち現れるのは, 双方の「われわれ」が一致しない場合である. 少なくとも私のいのちを奪うほどの痛みを生じさせたのは, 私を取り巻く人びとの「われわれ」だった. 
象カフェに集まってくれた人々


和人(※アイヌではない日本人. ただし, 和人概念には十分な検討がなされていないため, 誰を和人とよぶのかは疑問が多い)は, 私をアイヌと呼ぶ. アイヌは私をアイヌと呼んだり, アイヌではないと言ったりする. 私は, 和人にも, アイヌにも, 「われわれ」と呼びかけることができない. 私の物語は, その両者のそれに還元できない. ここから生じる痛みは, 私を100年の旅へと連れて行ってくれた. 痛みは, 私のいのちに, 彩をもたらした. 

東海大学では, 学術的な視点も入れながら, 話をした. 大西先生からのコメントには, おもわず涙が浮かんだ. 「物語を語らせる力がある」. さすが, 文学研究者(大西先生, 失礼な物言いをおゆるしください). 勇気づけられました, ありがとうございます. そうだ. 私は, 人びとに, 語ってほしいのだ. それぞれの物語を. 物語を持たない人は, 物語がわかりにくい. 誰かが, 喜びや, 悲しみや, 楽しみや, 苦しみの, 物語を持っていれば, 誰かの物語と, クロスオーバーする. 私は, 私の物語を了承してほしい. これまで誰からも知られることのなかった物語を. そして, 誰かに物語を語らせるかもしれない物語を. 

私は, 「話す力」を, 「侵略者の子孫」である父から授かった. 

おそらくこれから, 父の最期の日まで続くであろう, 長い沈黙の日々を, 父は生きている父は, かつて, 話すことにおいて誰よりも自由だった話す, ということは, とても難しいことである。ただ, 音を発しているのではない。話すことが許される場をもち, 自由に話すための強靭な思考力を持ち, そして, 激動する日々の中で, たゆまず次の言葉を探し続ける勇気をもつ人間だけが, 自由に話すことができる父が話すことにおいて自由だったのは, 偶然ではない様々な絶望的な局面や出口がないと思われる道において, 希望をみつけ続け, 絶対的な正義によって声を大きくする誘惑をかいくぐりながら, いつも楽しく, しかしどこまでもシリアスに, 父は言葉を紡ぎ続けた(石原真衣「父とサッポロ堂」『サッポロ堂書店 古書目録2019』より)

私は, まだまだ, 台湾で暮らす人の物語を知らない. 台湾には, たくさんの「われわれ」があるという. その「われわれ」の多様性は, 台湾の豊かさの源泉なのかもしれない. そして, これからの人類の豊かさを生み出すのかもしれない. また台湾を訪れよう。そして, たくさんの物語を聴こう. 

今回の滞在で, 多いに気に入った「黒小麺」で, 古川先生と昼飯を食べ, バスで朝馬から桃園へ向かい, 深夜の飛行機で東京へ降り立った. 少し休憩をしてから, 深夜バスで東京から福島へ. まるで, 学生のバックパッカーだ。私は初めて福島へ降り立った. 「あの、福島に, きた」. そう思った私の気持ちは, 注意深く, 心にとどめた. 福島大学で開催された平和学会では, 福島で暮らす学者や市民の声を聴いた. みえる衝突や, みえない衝突. 激論や, タブー. 問題が複雑で, 脳の処理が追い付かない. 原発事故から現在までの暮らしについての話をきいたときには, 思わず涙が止まらなくなる. しかし, 通りすがりの私が, 事故から8年も経過してから, 福島で暮らす人びとの痛みに一瞬対峙しているにすぎない私が, 涙を流すことは, とても失礼な気がした. フォーラム福島123456 支配人の阿部泰宏氏が, 私の発表内容に注目してくれた. アイヌの出自をもつ私と, 福島の原発事故がもたらしたあらゆる痛みをかかえる阿部さんをつなげるのは, 沈黙, だった. 私は, これから, 阿部さんとともに, 言葉を紡ぎたい. 

旅の最後は, 仙台だ. 観光地である東松島市を訪れた. 美味しい牛タン. 美しい島々. 2011年に津波に飲み込まれ, 1,109人(行方不明者24人)が亡くなった場所とは思えなかった. 今は廃線となった電車の, ICカードチャージ機が展示されていた. 津波に飲まれて、壊れたのだろう. 東松島市による伝承活動は, 語り継ぐことを大切にしている. 福島の阿部さんは, 2年目, 3年目, と記憶が風化していくのが, 怖かった, と言っていた. 言葉は, われわれ人間を不自由にする. しかし, いまは, 言葉を紡ぎたい. サッポロから, 台湾へ, そして, 福島, 仙台へ. 私は, たくさんの物語とつながり, そして, また, 物語を紡ぐ. 

2019624
仙台からサッポロへ向かうPeachの中で



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