天皇制ファシズムとシオニズム覚書

   「どうしてこんなひどいことができますか」南韓のチョナンにある独立記念館に台湾の学生を連れていったとき、学生が日本語を絞りだすようにして私に問いかけた。20数年も前のことだけどよく思い出す。独立記念館にはたくさん蝋人形があって、日本が行った数々の拷問、虐殺、暴挙がこれでもかとてんこ盛りで展示されていた。それを見終わって外に出たときにこの質問をされた。

独立記念館

彼女の質問は念館の展示がひどいという意味ではなく、日本人はなぜこんなひどいことができたのか、という意味だ。狭い部屋に人を押し込む。やっと立っていられる空間しかない。そこに何日も閉じ込める。眠くて体が崩れ落ちると壁に膝などがつっかかる。同じ場所がつっかかるので擦り剝けて終いには血が出る。痛くてもその姿勢しかとれない。精神的にも追いつめられる。息ができなくなる。電気ショック、水攻め―後に南韓の軍事政権が被疑者に対して行ったありとあらゆる拷問は日本が持ち込んだもののようだ。

南京で日本兵が中国人の赤子を放り上げて銃剣で受けた話とか、関東大震災で普通の市民たちが集まって朝鮮人と見るや竹やりで突き殺した話とか、学生たちは頭では知っている。でも、その場面が等身大で、色つきで、自分の目の前に(身体の前に)あるのと、本で読んだりドキュメンタリーで見たりするのはずいぶん違う。残虐性、暴力が物理的に身体に迫ってくる。

私はなにかもごもごと答えたけれど、彼女はおそらく説明を求めていたのではなかったのだと思う。暴力と残虐性の具体的な展示は、見たものに理性的ではなく物理的に襲い掛かり、人によってはトラウマを残すだろう。

突然「直視したくない残虐性」に襲い掛かられたら、その「もの」を嫌悪し目をそらすか、行為者を蔑み憎むか、その両方か。こうした行為もまた同じ人間が行ったことであり、それを嫌悪し、憎む私たち自身もまたそういう行為を行ったり容認したりする能力があるのだということは考えられなくなる。 “私たち”は「そんなことは絶対しない」、なぜ“彼等”は「こんなひどいことができ」たのかと思う。彼等は悪魔だった、人間じゃなかった―ということになる。

 日本で日本軍を語るとき「彼等は悪魔だった、人間じゃなかった」という語りは(少なくとも表立っては)まれだろう。では、同じ人間である彼等がなぜ「そのようなことができた」のかを、どう説明できるだろうか。その説明が、その理解が、欠落したまま「そんなひどいことはしていない、捏造だ」と断じたり、「戦争だからしかたない―だから戦争はしちゃいけない」とその先に考えを進めることに蓋をしてしまうことが多いのではないか。

 ハンナ・アーレントは「エルサレムのアイヒマン」で、悪の凡庸さを描いて見せた。アイヒマンは悪魔でもなければ狂人でもなく、どこにでもいる凡庸な官僚にすぎない、と。ナチの犯罪にユダヤ人もまた手を貸していた(ユダヤ人評議会が収容所移送者の選定を行ったなど)ことも指摘した。アーレントは、ユダヤ人が無垢の被害者でナチが悪魔という単純な物語が思考停止を産みだすと言いたかったのだと思う。しかしイスラエルとこれを支えるアメリカ合衆国のユダヤ人社会1は、「エルサレムのアイヒマン」から60数年を経てもなお、思考停止を続けているだけでなく深化させているようにしか見えない。

イスラエルに敵対するものは悪魔であり、その悪魔を支持するものは反ユダヤ主義者であり、歴史始まって以来ユダヤ人を迫害し続けてきた邪悪な勢力そのものだ・・・。

私には、実際にユダヤ人社会での「教育」-それは学校だけでないだろうが―がどのようなものだったかについて経験的に言えることはほとんど何もない。ただ、天皇制ファシズムと戦争犯罪について思考停止した日本の教育-これも学校だけの問題ではなく、私も明示的・非明示的な経験を通した身体感覚がある―から類推できるだけだ。(村山さたね)

 1. ユダヤ人社会にも、日本社会にも、思考停止に疑問を抱き打開を試みる人たちはいるのだから、ここで言う~社会とはひどく乱暴な括りだけど。

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