あるフィリピノ・バンドマンのこと
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| Pinoy Band (参考映像) |
結婚後、JさんはLさんのそれまでの数奇な人生を知るようになる。Lさんはドイツ人ビジネスマンの父親とスペイン系の母親のもとに生まれた。日本軍占領時代に父親はアメリカ人と間違われて殺された。母親もショックで他界、Lさんは孤児院に預けられた。ドイツ人の父の血を引く西洋系の顔立ちは孤児たちの中でも目立ったそうだ。しばらくしてコファンコ家の御曹司夫婦が、自分たちに子どもが出来ないため、「綺麗な」子どもであったLさんを養子に迎えた。
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| ベトナム戦争とバンド活動(参考映像) |
サン・ミゲルビールをご存知だろうか。サン・ミゲルは、コファンコ(CoJuangco)・ファミリーという中華系フィリピン財閥が所有してきた。コファンコ家は、他にもフィリピン航空の大株主であり、アグリビジネスにも手広く関与する大財閥。そんなコファンコ家にもらわれていったのだからさぞ幸せだろうと思われたが、実際は少し違った。御曹司の奥さんはLさんをもらうことに消極的だったが、徐々にLさんを疎んじるようになり、Lさんはミンダナオの遠い親戚のおばあさんのところに預けられることに。成人したLさんがコファンコの「父親」に次に対面したのは彼の葬式のときだったそうだ。未亡人となった「継母」はLさんにいくらばかりの金を渡して、これでコファンコとの縁は切れたものと思ってくれ、と言い渡した。LさんがJさんと出会ったのは、Lさんが何とかスービックで事務員の職を見つけ、働き出して2年後のことだった。
Jさんはもっと実入りのいい(という触れ込みの)日本での米軍相手のバンド活動に誘われた。稼げるときに稼いでおこう、そんな気持ちが彼を単身、横須賀へ向かわせた。1972年のことだった。それ以来、Lさんは日本の米軍基地を転々とし、78年に台湾に流れ着いた。不法滞在で警察に引っ張られたこともあるが、何とか生き延びてきた。フィリピンには72年以来ほとんど戻ったことがない。
そんな彼が、2年前に身体を患ったことも関係があるのだろう、去年のクリスマスに故郷に戻って息子や孫たちに会ってきた。三人の息子のうち、1人はアメリカにOFWとして行ったきり戻ってきていない。もう一人は中東に行った。長男は幸いフィリピンで定職についている。JさんとLさんの物語は、これから次の章を迎えようとしている。
Jさんはスービックで、横須賀で、そして台湾で何を思い、残されたLさんは何を思いこれまでの人生を送ってきたのだろうか。現在の二人の穏やかな顔からそれを読み取ることは私にはできないのだが・・・(突然思い出したので書き留めておきます、阿川記)
Jさんはスービックで、横須賀で、そして台湾で何を思い、残されたLさんは何を思いこれまでの人生を送ってきたのだろうか。現在の二人の穏やかな顔からそれを読み取ることは私にはできないのだが・・・(突然思い出したので書き留めておきます、阿川記)



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