虹の橋を渡った宮田さん
1月4日、宮田義仲さんが亡くなった。霧社では宮田(みやた)で通っていた長身、細身でダンディなWalis Pawanさん。88歳だった。第四回義勇隊に参加、ニューギニアでジャングルをさまよって、敗戦時に捕虜になって1946年に霧社に帰ってきた。
『みな、服もみな軍隊、兵隊の服。だから、義勇隊は、そのとき徴兵されていない。志願をしたけど、後から志願すると徴兵制度を、この、しかれた。まあ、あそこで、苦労したよ、もう毎日、もう、爆撃機よ。もう私も負傷してるよ、足、ここと、この・・みな負傷して帰ってとるよ。爆弾にやられて。もう爆撃がすごい。・・・(帰還したときは)傷だらけよ、身体。負傷して帰ってきとる。まだ、完全に治療してないしょ、もう、戦争は、本当は、日本へ治療するつもりだったんだ。みな、負傷したとか、怪我ね。あれ、直してから、台湾に送るて。で、台湾の総統、蒋介石、あれ、許さない。もう台湾部隊はそのまま台湾に送ってもらうって。もう日本によこさないで、みな台湾の、あの、引き揚げた。大西洋の中にも電報打ってくれた。そして、みな台湾に揚がってきた。』(2004年6月6日Walis談)
霧社地区では最後の高砂義勇隊生還者だった。もう知り合って7,8年が経つ。スヌイ(霧社の春陽村)の牧師と相談して、スヌイの年寄りたちの半生記を映像にしようというプロジェクトを2008年に立ち上げた。Walisさんもその対象として取り上げたが、完成する前に逝ってしまった。
Walis Pawan(日本名は宮田義仲、中文名は許明貴)さん、1924年5月3日、タウツァーのブンブンに生まれた。8歳のとき、親と一緒にサクラに引っ越してきたそうだ。1931年の計算になる。霧社事件の直後に、(蜂起した)旧Gungu―ホーゴ社の生き残りが清流に送られた後、ホーゴ社はタウツァー(トーダ)に引き渡され、タウツァーの人たちが移住してきた。部落の名はサクラに変わった。その中にワリスさんたちもいた。18歳(1941、2年)のとき、サクラを舞台に、松竹と満映が「サヨンの鐘」を撮影した。Walisさんもエキストラの一人として出演したそうだ。その謝礼に40円もらったが、そんな大金、山では使い道がない。持ったまま出征して、捕虜になったときに「これから東京に行くので、その日本円をくれないか」とアメリカ兵に言われ、取られたのだそうだ。
葬儀(1月10日夜~11日昼)には、サクラの2,3班の人たちがほとんど顔を出した。(⇒追悼記事と、作りかけの半生記映像から追悼用に製作したビデオ)(Awil Kazuo)

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