ゆきゆきて神軍



  

 「何か出来たらやってみろ、お前等の判断で、ロボットみたいなツラしやがって…!人間の顔か、貴様等の面!悔しかったら何かやってみろ!」(奥崎健三)


 「暴力をふるっていい結果が出る暴力だったら、許されると」「だから私は大いに今後生きてる限り、私の判断と責任によって、自分と、それから人類によい結果をもたらす暴力ならばね、大いに使うと」(奥崎健三)

 一九八七年公開、原一男監督作品「ゆきゆきて神軍」を二〇数年ぶりに観た。
 毎年正月に日本の皇居で「一般参賀」というのが行われているのを読者は見たことがあるだろうか。天皇が防弾ガラス越しに「参賀」にやってきた民衆に手を振る。以前は防弾ガラスはなかったらしい。ガラスが使われるようになった原因を作ったのが、このドキュメンタリーの主人公、奥崎健三だ。一九六九年の一般参賀で、奥崎は手製のパチンコ(Y字型の木の枝にゴム紐をはって、木の実などを飛ばす玩具)で、パチンコ玉(ゲームの「パチンコ」に使用される鉄製の玉)四発を、一五メートルの距離から天皇に発射。最後の玉を発射しながら「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て」と叫んだ―ヤマザキ(山崎)というのはニューギニアで戦死した戦友の名だったらしい。玉は一発も当たらなかった。
 「さようならCP」(一九七二年)でデビューした原一男の「極私的エロス 恋歌一九七四 」に続く第三作。カメラはそこにあるのだけれど、ないかのように内心をさらけ出す(ように見える)人物たちにドキドキしてしまう。原は、ずっと「衝撃的な」もう一つの物語を追い続けたようだ。私が「衝撃的」というのは、字義通りの意味。日常を覆っている見せかけの(幻想の)物語に衝撃を与えて亀裂が入ったとき、その亀裂からにじみ出てくる別の物語。
 観た後で「私は自分の信じる正しさのために、人にあのように詰め寄ること、行動することはないと思う。なぜなら正しさは人によって違うのだから」という意見が出た。「それだと(奥崎の言うように)『お前らの判断で何かやってみろ』と言われちゃうね。結局、自分では何もしない人になってしまうんじゃないか」という問いかけもあった。
 確かに「やくざ」なのだ、奥崎は。礼儀正しい振る舞いとことばが、相手の対応によって、瞬時に暴力的な行為とことばに変わる。それは相手が奥崎の考える『悪さ』をするからで、彼の善悪の判断が、相手に礼儀を尽くすかぶん殴るか、殺すかを決定する。
 「そんな風に自分を絶対に正しいとすることは到底できない」と感じることはいいことなのかもしれない。しかし私には、それが『日常の物語』が壊されることへの恐れのようにも感じられた。
 恐怖だけが伝われば、観たものはそれを忌避する。『別の物語』そのものも忌避されてしまうのかもしれない。
 日常の物語に亀裂を入れる方法、その亀裂から別の物語をにじませていく方法…それをまじめに考えさせる映像だ。(村山さたね)

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