台湾で「ことば」と「国」を考える

 10月半ばから1月の終わり頃まで、年末年始の短い「一時帰国」を挟んだ約3ヶ月を、私はEAPHETのもとで、台湾台中で過ごしました。そのインターン期間中、二つのトークを協会で行いました。その一つは、アジア最大級と言われる台湾のLGBT運動の情勢をめぐるもので、もう一つは、スコットランドと台湾における独立運動、その動機や目的などを考察するものでした。いずれも現代の主流をなしている「アイデンティティ・ポリティクス」と関わるものでしたが、そのような具体的、かつ、現実的な出来事を考える前に先ず、少なくとも私にとって、より切実に考えずにいられない問題がありました。つまり、これから先、日本語と日本(そして私の「母語」である英語と「本国」であるイギリス)、ことばと国というものは、どのように捉え、またそれらとどのように向き合い付き合えば良いのか、という問いでした。日本語も日本も色んな形で複雑に刻み込まれている台湾に行けば、視野が広がり、何らかのヒントが得られるのではないかと思ったのでした。
 台北、嘉義、高雄まで足を延ばし、タイミング良く総選挙に居合わせることもでき、協会で定期的に行われた上映会などで現地の人と色んな話や討論を交わし、短い期間ではあったが、台湾の現在の小さな一部を垣間見えたように思います。その間ずっと、日本語から離れることはほとんど一切ありませんでした。離れようにも、離れられないような状況でもありました。発音覚束なくても読めてしまう繁体字もあれば、求めなくても日本語が至る所で目に入りまた耳に入ってきます。日本統治の半世紀と最近の親日・懐日傾向が関与しているのか、日本語が特に抵抗なく口に出され空気を満たしてしまうように、感じました。これは、例えば中国大陸や欧米諸国では想像しにくい風景でした。
 ことばを常に意識していました。しかし、ことばというものはもともと情報伝達の道具であり、社会不正、公害、その他諸問題を告発し、その解決へと結びつくべき道を唱えるために行使されれば良いのであって、それ以上ことばに固執して、それが自ら具えている(神秘的な、計り知れない)何かを見出そうという態度は良く言えばロマン主義的な幻想、悪く言えば一種の「ことばの病」という他なく、「ことば」というものに超越的な意味を求める時、台湾統治とその「同化政策」に先立ち「国語と国家と」(1895年)という論文で上田万年が提唱した「国語は国民の精神的血液」であるという考え方と、私自身の「言語観」は、根本的に、果たしてどれだけ違うのだろうか、という半ば実存的な不安を覚えます。現にその引用から「国」という字二字を抜くだけで、おおよその詩人や文学者、読書愛好家があるところまで頷ける概念になるはずだろうと思います。
 とはいえ、上田万年の極論まで行かないまでも、ことばというものはやはり道具だけとしては説明し切れないものでしょう。あるいは「道具」という一言だけでも、その用途は情報伝達に留まらず、それ以上に、親睦を深める「道具」であり(いわゆる無駄話に象徴されるような)、そのことばに通じない者を排他する「道具」である、と言えるかもしれません。二二八事件の直後、本省人か外省人であるかを区別するために日本語が利用されたように、差別の道具であり得ることも言うまでもありません。
 そこには狭い団欒における「私(達)言葉」とより広い社会における「公言葉」の差異があるだろうが、前者が後者に吸込まれないのにどのような術があるのでしょうか。その問いは、「私たち」という団体が「国」という団体に呑込まれない方法と通じているところも大きいはずだろうと思います。
 そんなことばの有様、ことばとの在り方、自身の「言語」固執に悩んでいたある日、去年の暮れに大ヒットした『灣生回家』というドキュメンタリー映画を観に行くことにしました。「灣生」とは台湾生まれのことで、この作品に登場する人たちは統治時代の台湾に生まれ、終戦に伴って「本土」に引き揚げそれ以来50数年戻れなかった人とその子孫であり、映画はその子孫の一人によって撮影・監督されました。琴など伝統楽器を登場させるBGM、花散る桜の下、和傘を持つ着物姿の女性を描くアニメーションの挿入、涙ぐむ出演者など、「ニッポン」を全開に醸し出しつつ感傷を極まるものでした。私が鑑賞した平日の昼下がりはやや空いていましたが、聞くところによると上映期間が完了するまで満席に近い状態が多く、それも若い人が大半を占めたそうです。
 映画の中、特に私にとって際立って印象的な一場面がありました。主演とでもいうべき富永勝さんがその日本の家を案内しながら、引き揚げ当初のことをカメラに向かって回想するシーン。花蓮育ちの彼は本省人の子供との交流もあったからか、日本に「帰る」と、自分の話す日本語がおかしいと周りからいじめられ、あるいは自らその差異に気がつき、「正しい日本語」を身につける必要に迫られる。そんな難題に対面した時、彼が取った得策は、毎晩、畳の上に正坐し、3時間ほど『源氏物語』の原文を朗読することでした。「いづれの御時にか」と彼が暗誦し始めると、今目の前に展開している風景は「日本」と「日本語」が誇る権威(「伝統」と言い換えても良いだろう)、その国「日本」とことば「日本語」を密接に結びつけている権威そのものだ、という感慨を覚えました。生まれ育った土地から引き剥がされ、たどり着いた「本国」の日本でなお差別を受けた彼が、何らかの確かな足場、拠り所にできる確実な何かを必要としていた時に、そんな力強い「日本文化」とその権威の古典的な象徴にすがりつくさまは、ごく当たり前の反応ではあるでしょうが、それでも観ている自分、鳥肌立つ思いをしました。
 ことばと国との境界線がぼやけて見分けられなくなり、それらとの(特に後者との、意・無意識的な)一体化願望だけが目立ってしまう。日本に戻っていた正月の間、私は旅先で知り合った人に、台湾の原住民の方と出会った時、日本語で話していると、何の拍子にか桃太郎の歌を笑顔一杯で歌ってもらって、不思議な気持ちになったという経験を話しました。するとその(日本人の)反応は、「それは嬉しいですね」。恨みを予想していたところに却って一種の愛情があると聞くと安堵を覚えるのは、わからないことでもありません。嫌悪感は世界平和に少しも貢献しないでしょう。それでも、そこに身体的な喜びを覚えるのには、やはりその歌、そのことば、そしてそれらが表象している国「日本」との一体感なくては成り立たない気がしてなりません。もちろん喜ぶなとは到底言えず、更なる違和感を覚えるだけです。
 もっとも、「国」との一体感を全面的に否定することができません。10月末に見学参加した台北プライド・パレードのことを思い出すが、「正常」という概念の押し付けに対抗するその健気な態度に希望を抱きながらも、主催者が「自在な自己空間の展開」を第一の目的にしているように思われたところに小さな懸念も抱きました。「自己空間の展開」、「自分とは何か」という問題の探究はそのままそれだけに専念すると極端な個人主義にしかなれません。そんな風潮の中、人が、たとえば、スコットランドの独立運動の場合のように、「国」という概念に頼ってはいるものの、隣り合わせに住む人々の間の絆を深め、「現実世界」の意識を取り戻すことへの第一歩を果たせているとも言えるかもしれません。しかし、どうしてどうしても「国」なのだろう、という思いが消えません。よし血縁主義の排他的な暴力性は日本のみならず世界中の「近代史」を見れば見えてくるが、血縁ならぬ地縁主義はそれに交替できるほど丈夫な(また同時に、それほど違う)ものでしょうか。果たして。いずれにしても、「国」とその権威の誘惑はまだまだ強いように感じます。
 台湾は、歴史的な偶然によって、国ならぬ国となりました。その状態の個人的な面を実に鮮やかに表しているのは、次の、ある日本人言語学研究者に対して送られた手紙のことばにあります(『台湾における国語としての日本語習得』甲斐ますみ著、2012年より)。

聞いて下さいませ。此のポイステ雑巾の如きの台湾人の心の声を。半世紀と云ふ長い歳月かけて生みの親から捨てられ拾はれの親と云ふ様な哀れな時代に生れ会せた事を如何に汲み取って下さるでせう 私こと大正ひとけたの九年生まれの何国人でせうか(後略)

  国籍を自ら選ぶことなく上から授ける意味においては、この「大正ひとけたの九年生まれ」は例外的な存在ではありません。その「何国人」であるかをめぐるアイデンティティ的なトラウマも、現代「国際」社会における、「国籍」または「国家的アイデンティティ」によって定義される強制的な必要性の反影に他ありません。(その「心の声」は実のところ日本語なのか言語以前のものなのかはまた別の、恐らく本人すら永久に答えられない問題でしょう。)台湾の「無国性状態」に「国」を越えたもの、あるいはその可能性を夢見ることができます。実際、その曖昧性の魅力について、台湾滞在中色んな人と話しました。しかし、当の「台湾人」がそれを積極的に選ばない限り、あまり意味がないような気もします。
 201616日に行われた台湾総選挙で民主進歩党が圧勝したその翌日、結果発表の中継を一緒に聞いていた台湾人の友達からメールが届きました。台湾を国として公式に認識するよう、イギリス政府に求める請願書に著名してください、とのことでした。「国際社会から認めてもらいたい」ということばは、台湾滞在中、何回も耳にしました。また、台湾独立運動に大きく関与してきた許世楷も、その著書『台湾という新しい国』(2010年)の中で次のように述べています。

「権力者に追随することはない。自分たちは台湾人であり、台湾人には台湾人の立場がある」ということを少しずつ、おぼろげながら意識するようになったのです。

 しかしそれは権力そのものの否定ではなく、「台湾という新しい国」の新権力の成立にしかならないのではないか、というように思えます。でなければ何がその各々「台湾人」を結びつけ(得る)のでしょうか 結局、その請願書に著名することができませんでした。これは当事者に任せようと、自分がまだどこの何の、どのような範囲に及ぶ「事」の当事者であるか摸索中のまま、見守る他ありませんでした。いや、これは索して見つけるようなものではなく、これから作って行かねばならないものだという風に、意識が傾きはじめているかもしれません。この3ヶ月あまり、そんな私に模索・創作の場を提供してくださったEAPHETに、心から感謝しています。まだ咀嚼しきれていないものの、色んなヒントが得られたように思います。(トーマス・ブルック)



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