映画「鬼郷」を見た
2016年4月2日、大邱で李容洙ハルモニに連れられて映画「鬼郷」を見ました。上映会の前にハルモニの挨拶があり、歌や踊りの公演があり、上映会となった。私がこの場に居合わせた事情については別のところに書くことにしますが、映画の三分の一ほどまで見たところである感覚に捕らえられてしまいました。それは台湾で2011年に公開された映画「セデック・バレ」との性格の類似性というか、親和性というか、こういうのどこかで見たぞ…何かそんな感覚でした。
セデック・バレと鬼郷
「鬼郷」のチョ監督は、「セデック・バレ」の魏監督と、少し年の差はありますが両者とも1970年前後の生まれで、エンターテインメント志向の映画といっては語弊があるのかもしれませんが、そういうのを撮ってきた、中堅の監督さんたちです。
まずセデック・バレですが、魏監督が少年時代に読んだ漫画「霧社事件」に端を発しているとご本人は言っていたと思いますが、歴史物語をアクション巨編の題材にした作品です。霧社事件という題材は、日本や国民党によって散々使われてきた、いわば手垢だらけの題材で、映像化も初めてではなく、台湾の公共放送も連続TV映画として製作・公開されたことがあります。これを若い監督がどういう風に語るのか、原住民部落の間でも公開までいろいろな心配や期待が交錯しました。
心配というのは、漢人の視点から原住民を描いた従来の語りが、原住民の視点から見ればことごとく歪んだものであったことに起因します。モナ・ルダオの末裔部落の人々は魏監督に「くれぐれも私たちのガヤ(ここでは簡単に「文化」と訳しておきます)を間違って描かないでくれ」と再三要求を出しました。期待のほうは、若い監督だけに、従来の語りを打ち破って新たな語りを生み出してくれるのではないか、そしてそれが原住民の復権と自治運動の道を開いてくれるのではないかという期待だったのだろうと思います。原住民の観光産業にプラスになるという期待も、もちろんあったと思います。
さて、どういう映画ができたかというと、漫画「霧社事件」や、事件を幼少のときに経験した人が昔書いた本、そのほかの歴史書に描かれていて相対的によく知られている事件のさまざまなエピソードを英雄「モナ・ルダオ」に強引に絡め、アクション場面を中心に置いた作品が出来上がりました。辛口に言うと、ちょっと本を読んだりした人なら知っているあの話、この話を、どちらかというと強引につなぎ合わせた無理をアクション場面で埋めたとも言えると思います。
アニメ映画「ポカホンタス」を公開したときに先住民団体から「このようなウソの歴史を子供たちに教えるつもりか!」と追求され、「私たちは娯楽映画を作ったのであり歴史映画を作ったのではありません」と答えたディズニー社と同じように、魏監督も原住民からの抗議に対して同じような答えを使いました。
慰安婦問題に関して証言記録やドキュメンタリー(被害の記録というより尊厳の回復と謝罪を求める運動の記録が主ですが)ではなく、ドラマ映画に作ったのは尹静慕の『母・従軍慰安婦:かあさんは「朝鮮ピー」と呼ばれた』を映画化した1993年製作の「従軍慰安婦」(チ・ヨンホ監督作品)がありました。「鬼郷」は、そう考えると、22年ぶりの本格ドラマ化で、姜日出ハルモニの証言に「基づいている」そうです。「セデック・バレ」との共通性のひとつは、実話に基づいているという前提にもかかわらず、人口に膾炙している有名なエピソードを強引に主人公のストーリーに絡めて行く、その作り方でした。一箇所の慰安所での経験に、一般に語られているすべてのエピソードを無理やりに詰め込もうとする鬼郷は、セデック・バレと似た印象を与えます。鬼郷もセデック・バレも、人間ドラマ部分は表層的で型に嵌り、アクション(暴力)中心に進行していきます。
鬼郷を一緒に見た人が「ハルモニたちにとっては、映画の内容よりも、こういう映画が作られて多くの人の関心をひきつけることがまず一番大事なのかもしれない」と感想を述べていました。そうだとすれば、これも「セデック・バレ」との共通点になります。セデック(民族)がどのような人々として描かれるか、彼らの文化がどのように語られるか、ということよりも、映画を通してセデックの存在が世に知られ、認知されることのほうが大事だと言う原住民の人たちを私も何人か知っています。が、しかし、「あんなものは絶対信じてはだめだ、平地人がまた山の人を利用して金儲けをしただけだ」といった批判も少なからず耳にしています。もちろん、現実の人々を題材にドラマ(フィクション)を作るのですから、どのように作ったとしてもこうした批判はどこからかは出てくるのでしょう。
加害者と被害者と英雄
鬼郷を見終わって最初の感想は、実は、ここまで暴力を描きながらも暴力がなぜどのように発生してくるのかについて何も語られていないことへの驚きでした。巨大な暴力を振るう人間たちは特別な人間たちでも、生まれながらの悪人でもないとハンナ・アレントはかつて言いました。巨大な暴力は凡庸な人々によって行われる、と。
鬼郷の日本兵はやくざのように話します。おそらくチョ監督の中で《悪い日本人=やくざ》という図式があって、彼らの話し方をシナリオに採用したのかもしれません。そこには、自分たちがしていること(暴力)には絶対の論理があるのだ、正義があるのだと言葉や振る舞いで示そうとする(偽装してゆく)人間たちの姿がないのです。暴力を楽しむか、命令だから仕方なくやるのか、そのどちらかしか出てこない。
そして、もう一方で限りなく徹底的に無力な被害者としてしか描かれない少女たちというのが、私の第二の違和感でした。それは、彼女たちには金がほしかった人もいただろうとか、生き延びるためには日本軍に積極的に取り入った人もいただろうとか、そういうことに起因する違和感ではありません。そうではなくて、たとえば同じように植民地支配の暴力によって17歳で獄死したリュ・グァンスンが「能動的に日本と戦った独立の英雄」として描かれるのに対して、慰安婦にされた少女たちはただただ無力な被害者として描かれるという、言挙げのしかたの二極化に対する違和感だったのだろうと思います。
慰安婦にされた、あるいは軍隊から暴力を受けた経験をもつ彼女たちは、今、私たちの前に「徹底的に無力な被害者」として存在するのではありません。彼女たちは自分たちの社会や国家とも、そして日本の社会や国家とも戦い続けてきた人々として、今、(私の個人的な記憶のなかでは昔から)私たちの前に存在します。犠牲者としてではなく生存者として存在します。映画は、しかし、犠牲者としか描いていない。
その部分までをこの映画に要求するのは欲張りだと言われるかもしれませんが、これは単なる「部分」などではありません。今、慰安婦問題が問題として存在する理由は、少なくとも金学順さん以来ハルモニたちによって続けられてきた運動にあります。その姿を描こうとした映像作品はたくさんありますが、鬼郷ほどの注目も、観客動員数も得られていません。
鬼郷は現在と過去とを往復するプロット構成になっていますから、その現在の部分で「社会に受け入れられて幸せに暮らすハルモニ」を置くかわりに、もっと現実に近いハルモニの姿を置くことも可能だったんじゃないかと思います。その場合、もちろん《無力な被害者》像が壊れて、大衆に受け入れにくいハルモニの姿となってしまう可能性もありますし、南韓社会の今の問題にも触れざるを得なくなるでしょうが。
積極的に運動に参加せず、経験を隠してひっそりと暮らしてきただろうハルモニたちもいるということを無視したり、非難したりする権利は誰にもありません。ただ、私たちが慰安婦にされた人々の経験から学べることは、ウソと隠しと差別と暴力に対して、個人としての年齢的な限界まで闘い続けることはできるのだということなのではないかと私は思うのです。
朴裕河さんはハルモニたちが挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)に領有され、日本を糾弾したい挺対協によって利用されたのではないかという趣旨のことを書いています(「帝国の慰安婦」日本語版)。挺対協が韓国内外の世論形成に重要な役割を果たしてきたことは事実だと思いますが、朴裕河さんが挺対協がハルモニたちの運動を領有して彼女たちから主体性を奪ったということを示唆しているのだとしたら、それには賛成できません。ハルモニたちの闘いは、ほかの何であるよりもまず、二度と自分たちの主体性を奪われないための闘いなのだと思うからです。軍隊にも政府にも世の中の流れにも、二度と騙されないぞという気概がハルモニたちを支えているのだと、私は感じています。
ハルモニたちは「徹底的に無力な被害者」にも「徹底的に反抗する民族の英雄」にもなりたいとは思っていないのではないでしょうか。そういうことを「ハルモニたちは」と一般化して語るのは原理的に間違っているのは承知のうえで、あくまでも私の個人的な感想として書き留めておきます。(古川ちかし)

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