訃報 清流のハボ・マギスさん逝く
ちょっと前の話になるが、清流(日本時代には「川中島」と呼ばれたが、霧社事件で蜂起した6部落の生き残りを強制収容した部落)の川中島工作室、ハボ・マギスさんが亡くなった。80歳(正確ではないかもしれない)だった。去年の11月24日、脳溢血で担ぎ込まれた台中の病院で息を引き取ったのだそうだ。私が彼女に最後に会ったのは、去年の10月27日、霧社事件の記念日に、霧社の抗日記念碑でだった。いつも通り、日本から来た新聞記者の質問に元気に答えていた。まったく分からないものだ。
連れ合いのパワンさんもハボさんとほぼ同じ歳、同じマヘボ社にルーツを持つ夫婦だった。生まれは埔里だというから、母親がお産のために埔里に行っていたのか、川中島から埔里に何かの事情で移動していたのか、細かなところは分からない。時期的には、ちょうどパーラン社が中原に強制移住になったくらいのときに生まれた計算になる。
日本名を春子さんといった。ご近所の菊栄さん(彼女も今年に入って亡くなったそうだが、詳細は聞いていない)と、この春子さん、日本語の達者なおばちゃんがまた一人、いなくなった。ハボさんは工作室をやっていた。ここ数年に関して言えば、あまり生産的だったとは言えないが、一時は、村の活動中心に川中島の織物の展示場を作ったり、そこで教えたりと、精力的に活動したこともあった。何がきっかけで、その意欲がうせたのか分からないが、川中島だけでなく、中原(川中島の隣の部落)でも、サクラ(霧社近辺の部落、別名スヌイ、あるいは春陽村)でも、同じような傾向が感じられた。彼女たちの年齢の問題なのかもしれない。
サクラのバカン・ナウイさんと、よくそういう話をする。どうしちゃったんだろう、後継者がいないと嘆くわりには、どうにかしようという気概というか勢いというか、そういうものがどこからも(行政からも)沸いてこない。このままでは、織物の技術は失われるよね、と。
女性たちが織物工作室を立ち上げて、織物で生計を立てられるかもしれないと考えたのは1980年代の中ごろを過ぎたころだったろうか。90年代くらいまでは、政府のさまざまな援助もあって、伝統工芸というか山地の文化保存というか、そういうのにお金が回っていたらしい。たいした額ではなかったにせよ、政府からも認められ、その結果、地域でもある程度の認知を得られて、女性たちも続けることができたのだろう。でも、新たにこの商売に参入しようと若い人たちが思うほどには、援助も入ってはこない。平地の人で、織物に興味を持って勉強する人もいるが、それで生計を立てられるとは誰も考えていない。平地の人にとっては、あくまでも趣味として習うものなのだろう。ハボさんの工作室がなくなると、川中島には織物工作室はなくなる。もちろん、誰かがまた立ち上げるかもしれない。でも、とりあえずは、なくなってしまう。
サクラでも、バカンさんの工作室がなくなったら、あと1つか2つしか残らない。(アウイ・カズオ)

コメント