七 回目の3.11
2012 年の 3 月に台湾に避難してから311を日本で過ごす事がなかったのですが、7 回目の今年は日本で過ごす事となりました。静かにひっそり過ごそうかなと当初思っていたのです。日本に住んでいなかったし、なので、日本で西日本に避難している人たちや支援する団体ともかかわることなく過ごしていたので特になにかこちらから積極的に働きかける気持ちもなかったのです。
台湾にいて娘が大学卒業し自分のやりたいことを見つけ台湾から韓国に行ったあと、私は一人でそれまでとは変わらない生活をしていたのですが、どんどんひどくなる体調とそれと一緒にここで一人で倒れたらどうしようという不安感と、どうしようもない孤独感に襲われました。もちろん気にかけて誘ってくれたり訪問してくれたりする友人たちや、協会のお客さんやイベント、カフェのお客さんなどで日々たくさんの人に囲まれていたのですがたくさん近くに人がいても体調が悪いせいもあるのか、孤独というか空虚というかそんな気持ちになっていました。
原発(核電)や被曝についてもありありと感じるくらい関心や危機感がなくなっている様子や、台湾は廃核を決めたことで、安心感からか急激に興味をなくしている感じもひしひしと感じますし、社会問題も次々とおこるので協会でなにかするということも原発に関してなくなりました。忘れてしまったわけではないのでしょうが、そんなに継続してというものでもなくなっているのも感じていたのもあり もういろんな気力もなくなってしまっていたのです。
帰国して病院で重症の貧血と診断され現在は以前よりすこしましになってきてはいるのですが、波がありがっくりとひどくなると起き上がるのもやっとな日もあるのが現状です。5 年、6 年すぎるとがっくりと体調が悪くなる人が増えたというチェルノブイリの報告でもあったようにそんなことが自分の身体にも起こっているのではないかという思いが消しても消してもわいてきます。
北海道に避難した知り合い夫婦も貧血になったと聞き東京にいる友人(食べ物など気を付けている)は貧血から全身に痛みがでて自力で立って歩けなくなっていました。あちこちから聞こえてくる体調不良に、原発事故が終わっていないことを痛感しつつ世の中の温度との差に苛立ちや怒りなどの感情などがぐるぐると渦巻きます。
そんな中以前からの知り合いに誘われコミュニティラジオに出演し避難者関係の人と共演しそこからまた新たに知り合いを紹介され、関西に避難してきている人たちの団体に呼ばれて台湾の反核や日本が仕掛けてきている食品輸入の緩和などの話について学習会で話して欲しいと依頼され、行くことになりました。
その団体は、福島や東北だけでなく関東からの放射能避難者の会で、ただ単に脱原発を伝えているのではなく避難者たちが中心に健康被害や被曝のことを訴えている団体だったこともあり、学習会だけでなくちょっと参加することにしました。
そこで知り合った避難者の人たちと話をすると本当にみなさん壮絶な体験や現在を生きている人ばかりです。
母子避難の人、家族で避難した人、未婚でシングルだけど身体を壊しやっとの思いで転職し避難移住にこぎつけた人、年齢も住んでいた場所も様々なのです。強制避難区域の人もいればいわゆる自主避難とよばれる人もいます。
当然といえば当然なのですが 10 人いれば 10 人の状況がありそれぞれの苦難があり会って話をしだすとお互いに避難者同士という安心感もある為か話が尽きないのです。普段、それぞれが避難した場所で暮らしていて数年経っていても、避難していることを話せる人が身近にいなかったり放射能の事を話せるような親しい仲間が出来ている人はそんなに多くないために、避難者の集まりに来たらほっとして話ができるという状況です。
避難者の会に顔を出せる人はまだいいほうなのかもしれません。
体調が悪くなりこどもとともに避難したものの働けなくなり経済状況の為に泣く泣く、元いた場所に戻る人もいます。
私が知り合った母子避難のお母さんは、2 度 3 度と住む場所が変わっていました。家を借りるのに騙されてしまったりで転居し、仕事をみつけ働いていたけれども心臓がおかしくなり仕事を続けられなくなり地域の支援者に助けられ生活保護の申請をだした方でした。仕事をしたいが体調がよくならない為に苦しんでいました。
また他のおかあさんは、関東からの避難者でこどもの体調がすごく悪くなり原因不明とあちこちで言われ、最後に受診した ご自身も西日本に避難した医師に出会い、放射能の可能性が高いという事で西日本に移住したら子どもの体調がみるみるよくなり、被曝のおそろしさをもっと知ってほしいと活動しているおかあさんがいました。今でも、いつまたこどもの体調が悪くなるかと気が気ではないと話しています。
東海村の近くから避難してきた方は JOC の事故ですでにお子さんがぶらぶら病のような症状になっていたそうです。さらに福島の爆発でその症状は重くなり起きられないようになってしまい、大変な思いをしながら関西まで逃げてきた人にも会いました。
周囲の理解もなく毎日が大変だけれども関西に来て子どもの体調が少しよくなったので絶対に戻れないし、今また関西で原発になにかあればどうしようかと話していらっしゃいました。
また、福島から家族で避難したお父さんはたまたま勤めていた会社が全国規模だったから転勤に手をあげたらそれが通って家族全員避難できたけれど、他の人に比べたら自分は負い目を感じると話していました。そして大企業だという事が直接ではないが加害をもたらした権力側の恩恵を受けているのではないか、常に葛藤があり苦しくてと涙ながらに話をされていて、原発事故の及ぼす苦しみが多岐にわたることを改めて感じるとともにどの人も、あの事故さえなければまるで違う人生を歩んでおだやかな生活をしていたのだろうなと思うとやりきれない痛みを感じます。
そして、出会う避難者の方々が同じように話すことは、「復興復興、もう安心安全だというアピールがすごい。避難している人がいることもまるでなにも報道もされなくなりなにもなかったことにされる事が怖い」と言っていました。
定期的に街頭でもアピールスピーチをする避難者のお母さんたち、しかしその前を誰もいないかのようにたくさんの人が視線も送らずに通り過ぎていきます。その様子を見ていると、この世界はどうなっているんだろうと何とも言えない不思議な感覚と静かな怒りと哀しみが入り混じり苦しくなってきました。
この闘いはいつまで続くのか、この苦しみはいつまでも消えないのか何をしていけばよいのだろうと途方に暮れて疲労感でいっぱいになるのですが、避難者の方たちも絶対にあきらめない、少しずつでも 1 歩ずつでも今の状態を変えていきたいと普段の生活をしながらもそれぞれが時間をつくり学習会に参加したりイベントで発言をしたりしています。
私も歩みを止めずに出来ることをやりつづけていきたいと今は思えるようになってきました。7 年たちもう過去のことだと思わないで欲しいのです。避難者がたくさんいることを忘れないでほしいのです。7 年たってからでも体調不良がひどくなり関東から避難してきている人がいます。
日本政府や電力会社だけでなく、意図的に無関心な多くの人々や安全アピールにのせられる人たちが多くの避難者を追い詰めるということを知ってほしいのです。
顔の見えない無関心な人々が少しでも減ってくれることを願っています。 〔昌子〕


コメント