ダキス・パワンさん、虹の橋を渡る

 

 11月9日に虹の橋を渡ったダキス・パワンさんの告別式が11月16日、午前8時から埔里の自宅前で行われました。ご自宅は公園に面していて、その公園にも人々がそこここにたたずんで、式の開始を待つという状態でした。ダキス・パワンさん、1954年2月24日生まれ、日本式に言えば享年67歳、台湾では私と同じ68歳でした。
 初めてダキスさんに会ったのは、鄧相楊さんが「高校の先生で歴史研究してる面白い人がいるんだ」と言って、埔里のレストランで(他にも何人かいたと思いますが)紹介してくれたときでした。そのときダキスさんは国立埔里高工機械科の教師をしてたと記憶します。鄧相楊さんもレントゲン技師やら何やらのかたわら歴史研究にのめりこんでいたわけで、在野の(?)歴史好きというかオタクの集まりみたいな感じで、わいわいやっていた感じでした。鄧さんと知り合ったのは下山操子さんの弟さんの長男の結婚式で、操子さんに紹介されて知り合ったので、何か芋づる式にダキスさんにもたどり着いたわけです。それが何年のことだったのか思い出そうとしても、はっきりしません。周辺の記憶からの推測ですが2002年か2003年ころだったと思います。
遺影をもつ息子さん
 ダキスさんは清流(日本時代の川中島)の生まれで、実家は清流にありましたが、そこにいることはめったになく、埔里に居を構えていました。清流では「ダキスはちょっと考えが違ってるから…」みたいなことをときどき聞きました。おそらく、ダキスさんが清流部落中心の語り方をしなかったからではないかと想像します。歴史に翻弄されて、絶滅しかけて、何とか生き残ってきた小さな部落でその歴史を語ろうとするときに、みなを支えてきた物語ではなく、一歩引いて広く見渡そうとしたダキスさんのスタンスがある人たちには異端児に見えたのではないかとも思います。そうであってもダキスさんは長老たちからも一目置かれていたと思います。余生記念館(清流にある霧社事件の記念館)の中の解説文は、ダキスさんとタクン・ワリス(邱建堂)さん、二人の作と書いてあります。タクンさんは歴史研究者というわけではないですが、自分の生きてきた部落の歴史を肌で知っている人で、この二人が解説文を書いたことは(多少複雑な事情があるですか)納得できます。
挨拶するワリス・ペイリン氏

 清流には毎年数回学生たちを連れて行くのですが、そこでダキスさんに出会ったことは一度もありませんでした。顔は知っているけれど、あまり付き合いはないという状態が続きました。それが変わったのは映画セエデク・バレがきっかけでした。映画の撮影にあたって、セエデク語の監修および歴史文化考証人としてダキスさんが仕事をし、出来上がった映画がいろいろな議論を呼んだとき、私がダキスさんに連絡して、何度か大学やらEaphetなどで講演、討論会をお願いしました。当初、清流部落での説明会で「ガヤ(何と訳したらいいか分からないですが、守るべきしきたり、祖先から伝えられたやり方、などととりあえず訳しておきます)を間違って描かないでくれ」という声に「わかりました」と答えていた魏監督だが、撮影が進むにつれてダキスさんが「これでいいのか」と自問する場面が出てきたと言います。ダキスさんが「真的可以嗎?(これ、ほんとにいいんですか?)」と問うと魏監督が「不信嗎?(ダメなの?)」と返す、そういうやりとりが何度かあったと言います。後で、ダキスがついていながらなんでこんなシーンになったんだ、とセデックの長老から文句を言われたとも聞きました。それでも彼が最後までこの映画の仕事をどういう気持ちでやり遂げかについては別のところで書きました(http://eaphet.blogspot.com/2011/10/blog-post.html)ので繰り返しませんが、ダキスさんの指向と考えがあってのことでした。
 映画が公開されてからEaphetのニューズレターに「原住民は臺灣の番犬か」というような文章を書いたことがあります。それをタクン・ワリスさんにも送っていたのですが、たまたま済州島にいた私のところに(それとは知らずに)タクンさんが電話をかけてきて「よく言ってくれた」と賛同の意を表してくれたのを覚えています。ダキスさんが歯を食いしばってやった仕事にケチをつけるようで気になっていましたが、タクンさんの電話で少し楽になりました。
 ダキスさんは、原住民が強い自己主張をして台湾の中のアイデンティティ・ポリティックスを戦い、生き残っていくというような戦略に反対だったと思います。2007年だったと思いますが、セデック正名検討会で、会場がけっこう殺気だって「なぜ我々の民族の死活問題を、政治大學の学者連中ごときの手にゆだねなくてはならないのか、馬鹿にするな」というような言葉が飛び交い、机をたたいて怒鳴る人がいたとき、司会をしていたワタン・ディロー牧師に手を挙げて合図をし、会場の後ろから壇上の人物に近づいていってワタン牧師からマイクを受け取ると、ダキスさんは静かな声で「われわれは検討会をしているのであって批判大会をしているんではないですよね、そこのところ、よろしく」とだけ言ってまた後ろの席に戻っていきました。会場は水をかけられたように一瞬静かになった。なぜかあのシーンが記憶に残っています。セデックの正名運動の中で、太魯閣が先に正名を遂げるという大きな事件があって、その後もトーダとタクダヤ間で軋轢がぎしぎし言うなかで、何とか正名を遂げようとしていたときでした。結局、セデックの正名は電撃的にというか、こうしたダキスさんたちの葛藤も思いも飛び越して、政治的に決着され、ある日突然、トップダウンに正名達成ということになりました。邱若龍が机をたたいた2007年の検討会から1年もたたないときでした。あのことから、ダキスさんは何を感じ取ったのだろう。正名の祝いの会でもダキスさんの意見を聞いているのだけれど、特に印象に残っていない。
 2014年、シヤツ・ナブ牧師の「セエデク民族」の出版にあたって、コメントをお願いしたタクダヤ、トーダのほとんどすべての人から断られたところに、ダキスさんと(トルクの人だがトーダの部落で長く牧師を務め、シヤツ牧師とも交流があった)ペト・ノーカン牧師のお二人だけが寄稿してくださった。ダキスさんはほとんど二つ返事で引き受けてくれました。ペト牧師は少し考えての決断だったと記憶します。ダキスさんは映画の後、続けざまに本を出していたこともあって、筆がのっていたということもあったかもしれません。でも、タクダヤであっても中原出身のシヤツ牧師の書いたもの、それも蜂起したタクダヤにも非があったとはっきりと書かれたシヤツさんの文章を読んだうえでこれに寄稿するというのは、清流の中ではある種の造反行為だった―といってもそこまで話題にならなかったようで、それはそれでよかったのか、残念なのか、まあもちろん残念ですが、しかたないですね。
 2015年の1月に「セエデク民族」を出版してから、ダキスさんと顔を合わせるのはほとん
2019年の霧社記念日に抗日記念碑で

ど毎年の10月27日(霧社事件記念日の式典)だけという状態が続きました。今年、2021年の91周年の式典では、しかし、ダキスさんの姿がありませんでした。阿里山の人が教えてくれました。もうだめなようだ、と。え、どしたんですかと聞くと、(体調が悪く、持病もあったのに)無理してコロナワクチン打って、倒れてそのまま、あまりにひどい状態で見舞いにもいきたくない、とのこと。台中の栄民総合病院で死を待っているのだ、というのです。突然のことでびっくりするやら、信じられないやら…。そういえば、ここ数年、どんどん痩せていって(もともと細かったので目立たなかったけれど)髪の毛も真っ白になり、目がくぼみ・・・などと思いあたることがたくさんありました。
 
 左の写真は2020年の10月27日、抗日記念碑で撮った写真です。右からタクン・ワリス、私、鄧相楊、そしてダキス・パワン。これが最後になりました。不思議なことに、タクンさんが1952年、私が53年、ダキスさんが54年と、三人年子だねなどと三人で話したことも、そんなこともなつかしく思い出されます。

 告別式ではタクンさんがダキスさんの生涯を話し、ワリス・ペイリンさんも挨拶をしました。邱若龍さんも奥さんと来ていましたが、彼は話はしませんでした。鄧相楊さんはたぶんニュージーランドから帰ってくることができず、出席していませんでした。残念だったでしょう。時間がたつにつれて、式のために用意したテントでは人が入りきれず、前の公園にも椅子を用意しなくてはならないほど、人が集まりました。息子さんたちの話が泣けました。Rest in peace, Dakis! (Awil Kazuo記)

















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