歴史の流れに生きている人々-その2(陳千武さん) 2010/12/11

陳千武先生(陳武雄)と連絡を取れたのはある友達の紹介で楽群街警察官舎歴史調査のバイトをやり始めたからだった。台中の重要な文学作家をインタビューすることもその歴史調査の一部分であるから、陳先生にインタビューする機会を得られた。
協会で月に一回講演会を開くという提案があるらしく、今回は陳千武先生に協会まで来ていただいて講演を開いた。テーマは陳先生がどのような思いで慰安婦の話を書こうとおもったかについてだ。(補足:陳先生は「猟女犯」という著書で慰安婦について触れている)
実は陳先生は、ここ最近足の調子がずいぶん悪いようであまり歩けない。実は電話で断ろうとしたそうだが、せっかくの協会の皆さんと交流できるからと思い、協会まで来て下さった。これは実にありがたい話である。協会の会員の一人として本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
陳千武先生は1922年に南投に生まれ、台湾特別志願兵として南洋に徴用され、戦後台湾に戻ってから、現代詩の雑誌を創刊し、台中の重要な文学作家として活躍している。
陳先生の話によれば、1942年に大東亜戦争が始まり、台湾人の特別志願兵制度が開始されたが、実際は志願ではなかった。会議をするからと廟に集められ、志願する用紙に母印を押すように言われた。拒否できるような状況ではなかったという。その後大肚山で6月から12月までの六か月間訓練を受けた。その後台南に行き、第四部隊となり、さらに六か月間訓練を受け、一等兵となった。そして9月末高雄に行き、学校の校庭で一泊を過ごした後、船でシンガポールに行く。その後インドネシアのジャワ、それからスラバヤに行く。船は二隻に分かれ、ティモールのラオテン沖から上陸しようとしたが、二隻の内の一隻はオーストラリアの船に爆撃され、沈没してしまった。陳先生が乗った船は上陸する前に爆撃されなかったが、陳先生がティモールに上陸した直後、船が爆弾に当たって沈没してしまった。陳先生は部隊で機関銃を担当させられた。ティモールでの兵隊にいたときに慰安所に連れて行かれた女性を目撃した。彼女らは主にティモールの華僑かインドネシア出身であると陳が言った。陳先生は家庭のある婦人を勝手に部隊まで連れて行ったことを小説のテーマにし、『猟女犯』を書いた。彼は小説を書いたときに十分の七が事実で十分の三は自分で想像すると言った。事実そのまま書こうとしているので、なかなか長編小説が書けなくて短編小説を書いた。
 陳先生は『猟女犯』を書いたのが1976年のことである。彼は台湾に戻ってから10何年間の時間をかけて北京語を学んだ。その後中国語で作品を書くようになった。ただし『猟女犯』という題名は人を怖がらせるので、『活著回來』という題名で出版された。2000年に保坂登志子した『猟女犯』が出版された。
 陳先生は短編小説を書いたことの他にも、現代詩の雑誌『笠詩社』のことを話してくれたり、南投病院の院長と同じ名前で新聞に投稿した院長先生の原稿費が間違えられて陳先生の口座に振り込まれた話をしてくれたりした。そのきっかけで、あの院長との付き合いが始まったという。あの院長さんに現代詩の投稿を誘ったきっかけで、それ以来、院長さんは詩を書きはじめた。
また、陳先生は明台会と明台報の話をしてくれた。当時、シンガポールにいた陳先生はそこの華僑から日本敗戦のことを告げられた。そのときに、台湾を明るくしようとの気持ちから彼が明台会の創立に力を入れた。明台会が成立されてから、それに関連する明台報も創刊された。陳先生は元々その明台報を自分で保存していたが、その南投の院長にあげた。今手元にはまったく保存していない。ただし、すべての明台報がその陳先生と同じ名前の院長さんのところに扱っているではない。ただ一部の明台報が台南にある台湾文学館に保存されているという。
 今回陳千武先生は足の調子が悪いにも関わらず、協会までお越しいただいたことに改めて感謝の気持ちを伝えたい。今度もしよければ、協会ではなくて、協会のメンバーが陳先生のお家まで話を聞きにいけたらと思っている。

 ここで少し自分の感想を言わせてみると、台湾というこの土地で、他の国家より小さいのかもしれないが、やはり色々な人がいて、色々なことに遭遇し、色々な体験をしているのだと、今回の陳先生の講演を聞いて改めて実感した。一人一人の人間は彼なりの「歴史」を持っているんだなと思う。だから、私たちは今のようにどこかで誰かの声に一生懸命耳を傾けることがそれなりの意味があるじゃないかなと思う。(黄雅芬 -代理アップロードai 2010/12/14)

コメント

indigo さんの投稿…
今回陳先生にeaphetに来ていただきたいと提案したのは、陳先生の著作「猟女犯」を見て驚いたからです。陳先生は元日本兵として東ティモールで太平洋戦争に参加しました。私はなぜ兵士として戦争に参加した人が慰安婦のことについて書こうと思ったのか、その時に何か覚悟がなかったのかということが気になりました。そして書いたことによって台湾で何か反響はなかったのか。これについてa川さんがいろいろと質問してくれましたが、なかなか直接的なご意見をいただけませんでした。(台湾での反響については、あまりこの作品に対して興味をもたれなかったとおっしゃっていました。)しかしこのような疑問を抱く私と陳先生とはたぶんかなりの経験の差があるでしょう。一回の短い時間で陳先生の経験したことを感じるのは不可能です。今後もぜひ引く続きお話をお聞きする機会があればと思います。
私たちが知らない時代のお話がたくさん聞けてとても貴重な時間でした。(藍)
EAPHET さんの投稿…
雅芬さんの詳しい報告を見て思い出したんですが、陳さんが敗戦を知ったのはジャワで華僑たちが教えてくれたからだと思います。敗戦後、11ヶ月ほど英国軍に徴用されてインドネシア独立軍と戦闘”させられた”。でも日本軍将校で独立軍に入った人たちも多く、独立軍と(英国に命令されて”いやいや戦う”)徴用日本軍との間には殺し合う気などなく、互いに”木の根”に向けて銃を撃ちましょう、といった合意があり、見せ掛けだけの戦闘をしたのだそうだ。その後、台湾人は台湾に返しましょうということで、シンガポールに送られ、ほかの地域から来て帰還を待つ台湾人兵士たちと一緒になった。そこで”誰に支配されようとも明るい台湾を作ろう”という気持ちで「明台会」を作り、ガリ版で4号、明台報を刷って配った。・・・そんなお話でした。