Korea Now 記録片二本

 在左邊的亞洲影展の一部として協会で2本の記録片を上映した。ソウルの開発に伴う強制立ち退きを題材とした「立ち退けない人々」、それとピョンテクの米軍基地拡大に伴って土地を奪われた「平和の里の回想」だ(http://eaphet.myweb.hinet.net/info/KoreaNow.html)。
 新自由主義を推し進める李明博大統領の政策は、都市開発を開発業者の自由競争にゆだね、ソウルの土地は開発⇒転売の商品となった。同じことは、ここ台中市でも起きようとしている。記録片は抗議行動を追いかけ、5人の抗議者の不可解な死とその追悼などに焦点を当てる。開発業者の姿も政府の姿もなく、対立する抗議者と警察の姿だけが画面に踊る。
 「平和の里の回想」では、アメリカ兵のインタビューなどが挿入されているが、基本的には農民と抗議支援者、それと韓国の機動隊や警察のぶつかり合いが中心で、ここにも政府の姿もなければアメリカ合衆国軍、あるいは基地工事を請け負っている(権益を得る)土地開発業者や土木業者の姿はない。
 上映後の感想会では「被害者たち自身ではなくて支援者、活動家たちが主体のような印象を受ける」、あるいは「情緒に訴えるような作り方というか、語り方に違和感がある」というような意見が述べられた。
 これは一体、誰の問題なのか。誰と誰の衝突なのか。直接的には立ち退かされる人々と、立ち退きを強要する人たちとの間の衝突だが、後者は見えずに、その代わりに警察(その多くは土地収容から何の利益も受けない人々で、給料をもらって仕事をしているだけの人々だ)が見える。WTOをめぐる衝突でも同じように巨大な利権によって動く人々の姿は見えず、抗議者と警察とがひたすらぶつかり合う。警察は抗議者たちに個人的恨みがあるわけではないはずだが、衝突の中では感情がむき出しにされて個人的な恨みにも似たものが発生する。ある種の臨界点があってそこを越えると個人的なぶつかり合いになる。その臨界点は台湾の場合、日本の場合、韓国の場合というふうに、ある種の風土によって差があるのかもしれない。
 これは一体、誰の問題なのか、と問うときに”支援者・活動家”を「部外者であり被害者でも何でもないのに(自らの利益のために)嘴を突っ込んでくる人々」と考えることは罠なのではないかと思う。直接被害を受ける人々と、彼らを支援しようとする人々とが同じ立場でないこと、同じ利害を共有するのではないことは確かだ。だからと言って「被害者こそが絶対の主体である」と考えることは、周りの人々がその問題を「自分の問題」としてコミットしていくことを封じ、『(無私の)利他的行為』としてだけ関係が許されるような土壌(風土)を作り出す。これはどうしようもなく気味が悪い。(阿川 2011.3.27)

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