B級アクション、セディック・バライ(太陽旗)を見た
残念ながらB級アクション映画。ダイ・ハード4と同じで、それなりに金かけましたは分かるが、二度見たいとは思わせない。おそらく原因はカメラワークとシーン展開のまずさにあるのだろうけれど、Kill Bill風の血しぶき、首飛ばしといった場面を多用しなければ少しは救えたのではないか。
脚本は「有名なエピソード」を(形だけ)入れることに腐心しすぎで、人物も展開も分かりづらい。特に35年間の出来事の展開を追っているはずなのにその時間経過が見るものに伝わらない。トーダとの確執は少し(後半への複線として、しかし平板的に)描かれているが、ブヌンとの確執は納得できる複線もなく、唐突。ブヌンが“酷いやつら”にしか見えない(姉妹ヶ原事件)。
セディックの人々は全体として非常に好戦的で短絡的な人々として描かれているが、作る側にその意図はないのだろう。それは細部の演出から見て取れる。意図がないのに全体としての印象が好戦的、短絡的な印象を免れないとしたら、それは脚本のまずさ。“アバター”を見て、見習ってはどうかなどとさえ考えてしまった。出草の意味はこの映画からは不明で、とにかく首取るのが戦士、それも多く取ればそれがいいという平地人の誤解を踏襲しているので、“野蛮さ”だけが強調される。(取った首を日本警察が邪険に扱うのを見て、モナが切れるシーンがあるが、首の意味が分からない観客にとってはなぜモナが切れたのかおそらく不明。)
ビビアン・スーの演技は下手な学芸会並み。彼女の登場で後半への期待はぐっと薄まる。
タクダヤ語を指導した人は大変に苦労したことだろう。今まで台灣で製作した霧社事件ものではセディックが中文を話していたりしたけれど、この映画ではセディック語で通した。その点は評価できるが、トーダ語やブヌンのカンタバンの言葉までは手が廻っていないのではないかという印象だ。無論、タクダヤ語話者から見てどうなのかは私の判断できるところではない(ダキス先生、ご苦労様でした)。
これがどういう影響を持つのか、じっくり考えてからまた書きます。(阿川)

コメント
2007年アメリカ合衆国映画に“Bury my heart at Wounded Knee”という、侵略者国家に蹂躙された先住民、スーSiouxの物語がある。小説に基づいた映画でフィクション部分も多いけれど、アメリカ合衆国の中では現在のマジョリティが加害者であり、スーを被害者として上手に描き出した。Seediq Baleは、現在の侵略者国家のマジョリティを「私たちもセディックと同じく外敵に蹂躙された」(というところまで強くないにしても)と、先住民の物語をサクッと領有してしまっている。ベネツィア国際映画祭での出品国名表記をめぐる騒動も、Seediq Bale=台湾の物語、という傲慢さの延長にあるように思える。台湾が正名したいという気持ち、またそうすべきだということはよく分かる。しかし、それと歴史的に作られた弱者を領有することとの間には、人止めの関の奈落より深い落差があるのではないだろうか。(Awil Kazuo)
ダキス・パワンさんがあるテレビ番組で言っていたけど、10月27日の公学校襲撃のときに、モナの甥たち子どもたちが、隠れている女性たちを竹やりで殺すシーンがある。あれはアウイ・ヘッパウが書いた霧社事件の記述に基づいているのだろうけれど、アウイ自身、その場面を見たとは思えず、あんなことはGayaから言っても、あり得ないのではないか、とダキス・パワンは言う。