311犠牲者追悼式を取り囲んだ憎悪
原爆の日と、311
2005年8月2日、日本国で夏の恒例行事になっている「原爆の日」や「終戦の日」を目の前にして、戦後60年周年国会決議文というのが日本国国会で可決された。この「戦後~周年国会決議文」という『ん、何これ?なぜ?誰に言ってるの?』という宣言文が初めて出されたのは、この10年前、1995年のことだった(戦後50周年国会決議文)。1995年のときには、これで戦後は終わったのだ、侵略国や敗戦国にある種の決別をして『立派に立ち直った』とか『今は国際社会のれっきとしたメンバーなのだ』というような新規まき直し宣言的な意味合いがあったらしいけれど、ほとんどの「国民」には意味がよく分からなかったようだ。自民党の圧力で同様の決議案を出させられた地方議会でも「ん、何、これ?」感があったようだ。
2005年の決議文は “新日本国アイデンティティ”をさらにパワーアップさせて、10年前の決議にあった『侵略国としての謝罪』的な言葉を払拭して、今度は『被爆国としての国際平和への貢献』を謳った。(国際平和への貢献とは、この当時たとえばイラク戦争に自衛隊を派兵することだった。)いわく、『政府は・・・唯一の被爆国として、世界のすべての人々と手を携え・・・』。
この『日本は唯一の被爆国』という表現は、もちろんこれ以前から原水協(原水爆禁止協議会)などの反核運動でも使われてきた表現だが、“日本国として”これを名乗るとき、それはどういう意味になるのだろうか。
『日本は唯一の被爆国』―それは、広島と長崎は『日本の都市』だから被爆は日本国の被爆なのだという意味? それとも、原爆は『大日本帝国に対して』使用されたのだから日本国の被爆なのだ、という意味? あるいは? 被爆したのは現実の土地であり身体をもった人々であり、国というもともと概念的なものが被爆したと言われても、それを比喩以上の何かとして了解することはむずかしい。
最初の日本国による被爆者支援施策は1957年4月の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)だそうだ。1952年4月に「主権回復」したにも関わらず、被爆問題はその後5年間も放っておかれたように見える。A級戦犯の名誉回復や、旧植民地人の外国人化、軍人恩給の給付などは待ってましたとばかりに手を付けたのに、なぜ被爆者救済法は5年後、被爆から数えれば10年後だったのだろう。
広島平和祭(被爆者慰霊祭・追悼式)に日本国首相が初めて参加したのは1971年(佐藤栄作)だった。被爆から実に26年後のことだ。長崎の原爆の日の式典には1996年以降、首相と厚相が交替で出席するのが恒例になったという。どちらにも天皇は一度も参加したことはない。1963年から始められた日本国主催の「8.15全国戦没者追悼式」が被爆者も含めた「戦没者」慰霊祭なのだから天皇はそちらに出ていれば十分、ということなのだろうか。そう解釈するためには、しかし広島・長崎での被爆による老若男女の死者が「戦没者」に含まれるという広義の解釈が必要(広島・長崎の犠牲者は、法律用語上は「戦没者」ではなく「一般戦災死没者」に当たる)だろう。広島平和祭も長崎のそれも市の主催で日本国主催ではなく、日本国主催の原爆忌式典はない。こうした日本国の対応のしかたと、被爆を「日本国の被爆」と主張する言説との間には、ずいぶんと距離があるように見える。
東日本大震災犠牲者の慰霊では、日本国は原爆犠牲者への対応とは対照的な姿勢をとっている。去年の「東日本大震災1周年追悼式」から日本国の主催で行われ天皇が出席し、国外からの客(外交代表)も招かれた。2周年の式典がついこのあいだの3月11日、国立劇場で行われた。
壇上には花が並べられ、正面には大きく日の丸が掲げられ、黙とうの前に「君が代」斉唱が行われ、首相の挨拶に続いて天皇の「お言葉を賜る」儀式があった。1周年と2周年で変化したのは台湾が外交代表席に座り、献花する際に国名をアナウンスされる「指名献花」をしたこと(中国がこれを不満として出席しなかったこと、ついでに言えば韓国大使館が日本政府からの式典への招待のファックスを間違って捨ててしまって?欠席したこと)くらいだ。1995年の阪神淡路大震災で多数の犠牲者が出たが、これに対して政府主催の慰霊祭的なものは行われていない。この震災の犠牲者は7000人ほどとされる。
同じ3月11日、震災の犠牲者15,800人の名簿が、大正天皇までの歴代天皇廟がある高野山奥の院に「奉納」された。これについて遺族の了解を得ているのかどうか報道からは分からない。それを言うなら、死者たちが日の丸の下に置かれ、天皇の「お言葉を賜り」たいのか、「御霊(ミタマ)」と呼ばれたいのか、遺族たちがそれを誉とするのかどうか彼らの意向がどのような形で確かめられたのかについても報道からは分からない。
311追悼式典を取り巻いた憎悪
会場のすぐ外では「在特会」(在日特権を許さない市民の会)がピケを張った。「反天連」(反天皇制運動連絡会)が追悼式会場に向けてデモするのを待ち構えて阻止しようということだったようだ。「在特会」は、『追悼式を政治的なものに利用しようとするのは死者への冒涜だ』というようなことを主張して、そこに現れたほんの少数の「反天連」デモに対してよってたかって罵声、怒声を浴びせた。追悼式会場の外の一角は、一方的で空疎な憎悪に満だされた。
『死者への冒涜』『政治に利用』という表現は、台湾の出席に抗議して欠席した中国に対するネット上の批判でも使われた。NHKも似た表現を使った。3月11日のニュースウォッチ9で大越キャスターは中国の欠席についての報道を「死者の追悼なんだから政治を持ち込むのはいかがなものか」というようなコメントで締めた。
3月11日(9日から11日にかけて)、追悼式会場の外、都内でも地方でも各地で反核デモ、示威行動が行われていたが、ここにも憎悪があった。「放射能から子どもを守って!」「原発はいらない!」といったプラカードを掲げる人々に対して、手に手に日の丸を掲げた人々が通りを挟んで「お前たちには死者を悼む気持ちがないのか、帰れ、帰れ」と呼ばわった。特に11日の都内ではひどかったようだ。震災の死者を追悼することと、原発反対を言い募ることとが真っ向から対立するかのような構図が作られていった。この日、警察に取り囲まれた追悼式会場の「厳粛な」雰囲気と、町に溢れる憎悪とが奇妙な対照をなした。
国家が追悼しない死者
3月11日の「東日本大震災2周年追悼式」の式辞で、日本国首相は「原発事故のためにいまだ故郷に戻れない方々も数多くおられます。」と述べ、天皇は「国や地方自治体関係者、多くのボランティア、そして原発事故の対応に当たった関係者の献身的な努力に対し、改めて深くねぎらいたく思います。」と述べ、それぞれ一回ずつ「原発」に言及した。一回の言及からその意味を探るのはむずかしいけれど、とりあえず言えそうなことは、東日本大震災犠牲者(死者)に、原発による死者はいないという主催側の認識があるということだ。(これには、もちろん異論があるだろう。原発事故で立ち入り禁止にならなければ受難者の救済ができたのに、それができなかった人たちもいると聞いた。原発事故の影響で何人が死んだという風に特定することはむずかしいのだろうが、原発は関係ないと言うことも同時にむずかしいはずだ。)追悼式で追悼されたのはとりあえず「地震と津波(自然災害)の犠牲者」だった。
原爆も原発事故も「人災」だった。福島第一原発のメルトダウンについて、東京電力は原子力賠償法の例外規定(第3条ただし書き:異常に巨大な天災地変や外国の侵略など社会動乱によって事故が起きた場合には事業者は免責され、国が賠償責任を負うという規定)の適用を主張することを早期にあきらめた。その見返りに、去年の7月に国から一兆円の資金投入を得てなんとか存続している。東電も政府も今さら「あれは自然災害でしかたなかったんです」とは言えない。広島・長崎の原爆投下についての責任論は今でも果てしなく続いてはいるけれど、どう転んでも「自然災害です」とは言えないし「日本国とは無関係です」とも言えない。福島第一原発のメルトダウン、広島・長崎の原爆、両者ともに国家が無関係と主張できない人災なのだけれど、その犠牲者たちは国家に「御霊(ミタマ)」として追悼してはもらえない。むしろ、国家が関与した人災だからこそ追悼してもらえない、と考えるべきなのだろうか。(村山さたね)

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