帰っていったLubi―追悼Lubi Nabu



Lubi Nabu

2014720日午後10時、Lubi Nabu、逝く。Seediq Tkdaya。享年78歳。1937年パーラン社第四班に生まれ、三歳で中原へ強制移住。父、Abu IbuyQacuq)、母、Labe Watan(萬大Cimil)。中原で大きくなるが、Snuwilの第四班に嫁いだ(Snuwilの人、Sediq TodaHasanさんと結婚)。霧社の山にとって、ひとつの時代が終わったのかもしれない。歴史に描かれることのない日本時代から国民政府へ、そして民主化へと続いた台湾の山地で、女性たちがGayaの残滓と押し寄せる全球化経済の中で自律を模索したひとつの時代が終わったのかもしれない。

 Lubiと初めて出会ったのは、ルビーの長兄、Losiの紹介だった。2001年か2002年ごろのことだと思うけど、はっきりしない。霧社でお茶屋をしていたLosiさんは、人が訪ねてくると喜んで昔の話をしてくれる地元の名士だった。実際、農会長を務め、郷の議員にもなった人だった。そのLosiが逝ってしまったのは2007年の1月だった(http://web.thu.edu.tw/mike/www/buraku/rossi.html)。清流に行って「泊まっていけ」と言われるたびに「これからSnuwilに行くので…」と言って断っていたら清流の人から「Snuwilに恋人がいるんだろ」と言われた。一度や二度ではない。そのうち「ああ、Lubiね」ということになった。Lubiは美人で織物がうまく、夫を亡くしていたから、あながち冗談ではなかったのかもしれない。

 若くして夫Hasanを失くした後、たくさんの後妻の誘いを断ったLubi6人の子どもを抱えて、そりゃあ並大抵な苦労じゃなかっただろう。息子三人、娘三人。畑仕事をした。他人の畑も手伝って手間賃を稼いだ。少し楽になってからは織物工作室を(Snuwil、中原、清流で初めて)開業した。織物で生計を立てられるよ。そういうことを教えて回った。それでSnuwilでも工作室を始める人たちが出てきた。織物工作室の先駆者だった。

 18歳のときにキリスト教と出会い、洗礼を受けた。水沙連のキリスト教化に尽力したKumu Lowsingとともに清流に伝道した武勇伝は、記録映画「Lubi Nabu」にも描いた(http://youtu.be/amR5DBrsB7M)。山のこと、キリスト教のこと―みんなLubiが教えてくれた。それだけじゃない、Lubiは私と学生たちのために、いろんな人を紹介してもくれた。山の郵便配達人、Phuk Nabisさん。高砂義勇隊のPawan Walisさん、そのほか。みんなLubiがいなかったら会うことができなかったかもしれない人たちだ。Lubiは紹介したらかならず自分も同行して、私たちと同じように、いや私たち以上に彼らに物語の細部を問いかけた。
オープン式典で話すLubi
 20108月、突然工作室を畳んだLubi。どうしたのと言うと、膝が言うことをきかず、もう疲れた、という。今、考えると、この前後に中原にいた娘さん、Iwanが病死した。こたえていたのは分かっていたけれど、工作室を辞めるということと、娘さんの死は、私の中では結びついていなかった。とにかくLubiを励ますために、みんなで工作室を建て直そうということになり、学生たちと一緒に工作室をリニューアルした(http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/GS/GS-Project/yama/Lubi-project.html)。20116月のオープン当日は村を挙げての祝宴となり、Lubiも満面の笑みだった。

織物を愛したLubi
それからたったの3年だった。高血圧と膝の痛みを抱えて、創作意欲も徐々に殺がれていくのが傍目にもはっきり見えた。最後の引き金になったのは、桃園に嫁いでいた娘さん、Labayの死だったようだ。二番目の娘さんは結婚して母親と同居しているが、十数年前に中風の発作で半身不随。息子たち三人は健在なものの、娘たち三人を襲った不運が身に応えたのかもしれない。最後は蝋燭の火が消えるようにフッと気力が失せたように見えた。

 子どもたちが大きなって独立していったとき、私も年だから刺青を入れようかねえと言ったら息子たちに、母さんそれだけはやめてくれと懇願されたそうだ。Todaの女性は頬から口まで、そして額に三本だが、Tkdayaの女性は額に五本、縦の刺青が入る。「わたし、よおく夢に見るのよ。ここに、こうして(五本の指を額にあてて)五本の刺青ね。」Lubiの中にGayaは生きていたのだと思う。でも実現しなかった。息子たちは、母の刺青をあきらめさせるために昔のやり方で丸太の小屋を建て、中で火が炊けるように工夫した。母もそれで刺青は断念した。

Snuwil三人娘:(左から)Lubi, Labay, Bakan
 日本が去ったとき小学2年生だったLubi。霧社の山で初等教育が再開されたのは敗戦から2年目だった。そして228事件とその後の混乱、白色テロ、貨幣経済の浸透、山の開発ブーム…Lubiの闘いは終わりを知らなかった。静かに静かに闘った。男たちと闘った。ときには政府と闘った。ときには部落の人たちと闘った。信仰が彼女を支えたのかもしれない。子どもたちへの思いが彼女を支えたのかもしれない。
Seediqの言葉で「wada」とは「行ってしまった」「帰った」というような意味で、死をも意味するという。生命を織りなした方(Udux)がその生命を連れていくことが死だとも言う。Lubiも帰っていったのだ、額に五本の刺青を入れて。(Awil Kazuo)






 

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