B級戦犯として15年の刑を受けた周慶豊さんを訪ねる




526日、台中の自宅に周慶豊(岡本慶明)さんを訪ねた。紹介してくれた李展平さんと、協会会員ら7人でお邪魔した。多少聞き取りにくいこともあったものの、88歳とは思えないしっかりした話しぶりで対応してくれた。
周さんの生涯についてはすでに紹介した本もあるので、ここでは概略だけ記そう。周さんは18歳のときに新聞広告で「(捕虜収容所の)監視員募集」を見て応募した。1943年(昭和18)の8月のことだったそうだ。台南の白河にあった陸軍の演習場で2週間の訓練を受けたあと、高雄から船でサイゴンに。サイゴンで1ヶ月ほど待たされたあと、やっとボルネオ行きの船に乗り、赴任地であるクチン(第一分遣所)に到着した。クチンは当時の英領ボルネオの首都。周さんは「雇人」という資格で、その中でも最年少だった。
周さんたちが着いて最初にした仕事は捕虜を受け入れるための設備作りだったそうだ。捕虜たちは、しかし、すぐに到着した(クチン収容所の開設は資料によるとこの1年前の1942年となっているが…)。2000人ほどいたんではないか、と周さんは記憶をたぐる。「みんな図体が大きくて、見上げるばかりだった」と。(ボルネオの捕虜収容所としてはクチンのほかに北部のサンダカンが有名だが、19446月時点で10箇所あった)クチンでは大きな事件などなかったが、一度、オーストラリア兵にびんたを張ったことがあった。それが後の戦犯法廷で15年の刑を受けた決め手となったようだ。(別の資料によると戦犯法廷では、びんた一発5年、拳固一発10年、と言われていたそうだ。)敗戦のときには雇人という身分から「雇員」と呼ばれる身分に昇格していて給料も増えていたそうだ。
敗戦してそれまでの捕虜と監視員の立場が逆転した。周さんたちはジェッセルトン(ここにも日本軍の捕虜収容所-第四分遣所があった)に送られ、そこで戦犯法廷に立たされた。法廷を待つ間に、サンダカンから来た日本兵から悪名高いサンダカン死の行進についても聞いたそうだ。「やむをえなかったのではないか…」と周さん。判決を受けた後、マヌス島に送られ、数年間の労役。日本が主権を回復した1952年に大阪商船の白龍丸で横浜に移動。巣鴨拘置所に入れられた。シャツ一枚で日本に着いた周さんにとって東京の11月は寒かった。拘置所の部屋で布団をかぶって震えたという。「なんでメリヤス一枚くれようとしなかったのか、今考えても、それだけは納得できない」。寒いので風呂に何度も入っては身体を温めた(風呂は割りと自由に入れたようだ)。日本人の収監者たちは連絡先を言い置いて仮釈放みたいなかっこうで服役していたが、(19524月に)外国人となっていた周さんたちにその措置は認められなかった。それでも、夜は帰ってくることを条件にアルバイトに出ることはできた。それまでに積み立てた軍事郵便貯金は渡されていたが、戦後の物価高騰の中で2000円ちょっとの貯金では「メリヤス一枚買えなかった」と周さんは言う。でニコンのレンズを梱包するバイトや、パチンコ屋のバイトなどをしたそうだ。外出するときには、巣鴨拘置所が発効する身分証明書を携帯する。「右の者は、平和条約第11条に基づき当所に拘留せし者なり」そんなことが書いてあった。これを見せたら警官の尋問にあっても警官が「ご苦労さまです」と言って通してくれた。
1956年に出所すると、2日後には台湾の船に乗って基隆へ。周さんより前に帰国した巣鴨組は、国民党の特別警察の監視の下に置かれたそうだが、周さんは(たまたま妹の婿さんが刑事と親しかったという事情もあってか)見張られていると感じたことはなかったそうだ。周さんが話の中で珍しく語気を強めたのは蒋介石が日華条約で賠償請求権を放棄したくだり。
以上の話を2時間ちょっとかけて話してくれた。一度にこれ以上の話は無理かとも思い、後日の訪問を約して辞去した。いろいろ聞きたいことがあったけど、まず南方の地理に始まってこちらの予備知識が足りなかったので、その10分の1も聞けなかった。
台湾籍、朝鮮籍のBC級戦犯たちは「無理やりに駆り出され、日本兵に強要されて捕虜虐待の前線に立たされたにも関わらず一手に罪を背負わされ、戦後は外国人にされたにも関わらず(何の補償もないまま)日本人であったときの罪をつぐなわされた」と(日本では)語られることが多いという印象がある。つまり一方的な被害者像だ。戦後、日本政府が一方的に植民地人を外国人にしたこと、それによって周さんたち元日本軍人・軍属が援護法の対象外にされたことは、情状酌量の余地なく日本政府の横暴だ。ジュネーブ条約を批准しておきながら捕虜取り扱いにおいて条約を無視した日本軍の命令に従わされた周さんたちへの責任の大半が軍隊と政府にあることも同様に疑いの余地はない。それでも、その軍隊に自ら参加していった人たち自身の気持ちの中で、あるいは人生の中で、戦犯となった経験がどのように位置づけられているのかを私は知りたいと思う。経験のどの部分が、どういう理由で失敗、あるいは不条理だったのか。どの部分は成功、あるいは理にかなったことだったのか。どの部分は生まれ変わってきても繰り返すのか、どの部分は繰りかえさないという決意を持つのか…。周さんたちが後続の世代に伝えたいことが必ずあるはずだ。それをまだ聞いていない。(村山さたね)

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