アメリカ合衆国、法を曲げて日本のプルトニウム蓄積を援助②


201249日 National Security News ServiceNSNS)の記事、United States Circumvented Laws to Help Japan Accumulate Tons of Plutoniumを、今、金曜日の「英語で読むかい」で読んでいます。ネットにも、この記事の全訳はないので、毎回読んだところまで(連載で)みんなで考えた訳を掲載していきます。今回はその第二回です。原文はこちら

 日本は電子産業や自動車産業に取り組んだのと同じように原子力問題に取り組んだ。まず企業の中枢グループ各社が、長期的な利益が見込まれる分野を分担する。そして各企業に、政府が必要な財政的、技術的、法制度上の優遇を与えることで企業を育てる。この戦略は功を奏し、日本は敗戦後、一世代にして一躍経済大国にのし上がった。
 こうした国策の下で原子力技術開発に携わった5社は、1950年代にアイゼンハワー大統領の「原子力の平和利用」プログラムの下でアメリカ合衆国から日本に与えられた通常の軽水炉をはるかに越える技術躍進を遂げることを要求されていた。アメリカ合衆国やヨーロッパが達成できなかったもの、つまり実験的な高速増殖炉を商業的に成功させなくてはならない、という要請があったのだ。5社は、傲慢にもそれができると考えた。何と言っても日本人は産業工程の職人なのだ、自動車でも、テレビでも、マイクロチップでもアメリカ人より高品質で低価格の製品を作り出した…原子力事故はちゃんとした教育や訓練を受けていない操作員のミスだったり、充分な安全対策を怠ったことに原因したり、ほとんどいつもヒューマンエラーによるものだ、アメリカ合衆国やロシアではそういうことが起こっても、日本ではそんなことは起こらない、と(傲慢にも)考えた。
 中国、北朝鮮、インド、そしてパキスタンが核兵器を開発する中、日本とその西側同盟国はこの脅威に対抗すべく同盟関係を強化した。1960年代の米大統領リンドン・ジョンソンと日本の首相佐藤栄作の秘密会談で、秘密裏に原子力技術を日本に移転することは、激化する東アジアの軍事競争に対して日本を強化する国際的な戦略の一部となった。この政策はレーガン大統領時代に頂点に達し、同政権はそれまでの政策を一転させ、米国から日本に輸出された核物質について、米国側からの一切の監視、管理をなくすような立法を行った。
 日本政府は日本国民のよく知られた核兵器嫌いを利用して、メディアと歴史家たちが政府の核兵器開発について詮索しないように操作した。その結果、20113月の悲劇にいたるまで、日本の原子力産業は批判的なチェックを受けることなく、隠され続けてきた。国際的な核拡散を監視する国際原子力機関(IAEA)も、これに目をつぶってきた。
 何十年もの間最高機密扱いになってきた日本の一産業分野についての私たちの調査は、冷戦以前そして冷戦中の日本とその同盟西側諸国の政策と、そうした政策を作り出してきた高官たちについて、重大な懸念を提出するものとなった。国際的企業体と政府関係者たちは、一般民衆の安全を犠牲にして欺瞞を働いてきた。原子力の平和利用という見せ掛けの下で、彼らは巨大な利益を上げてきたのだ。

F号計画:日本最初の核兵器プログラムFfissionの頭文字だが、日本では仁科雄のイニシャルをとって二号計画と呼ばれた)
 
1940年代初期、世界は人類の歴史の中で最も血まみれの闘いの只中にいた。ドイツ、英国、米国、そして日本の科学者たちは原子から想像を絶するパワーを持つ兵器を作り出そうとしていた。理論を破壊的な現実に転換しようとするこの核兵器開発競争が、何百万もの命を奪った戦争の隠された意味だった。この競争において日本はヨーロッパやアメリカのライバルに引けをとっていなかった。日本にかけていたものは、ただ、原材料と、それを原子爆弾にまで製造するための産業的な余力にすぎなかった。日本の戦争体制は、しかし、自分に足りないものを何とか調達してくるという点においては優れていた。
1940年から、日本は積極的に核の連鎖反応技術の研究を始めていた。仁科芳雄博士は、彼の戦前の核物理学研究によってノーベル賞にノミネートされていた。彼と若い科学者たちのチームは、アメリカ人よりも早く爆弾を製造するべく理研(物理化学研究所)で研究に没頭した。2年間の予備的研究の末、1942年にF号と称される原爆プログラムが京都で立ち上げられた。1943年までに、この日本のマンハッタン計画は爆弾に使用できるウラニウムを分離できるサイクロトロン(加速器)を作り上げていただけでなく、原子の知られざるパワーを解放する知識を蓄えた科学者のチームを作り上げていたのだ。米国がワシントンの砂漠にウラニウム濃縮施設を作り、その巨大な施設がグランド・クーリー・ダムが発電する最後のいワットにいたるまでの電力を食いつぶしていたとき、日本は原爆製造に必要な原材料、ウラニウムを帝国中探し回っていたが、見つからなかった。
 日本はナチス・ドイツに助けを求めた。ナチもまた原爆開発をしていた。しかし、1945年初めには、同盟軍がライン川まで侵攻し、ロシア軍がプルシャを攻略し、ドイツは敗戦の色が濃くなっていた。ヒットラーは最後の力を振り絞って1200ポンドのウラニウムを載せたUボートを日本に向けて出航させた。Uボートは、しかし、日本に到達することはなかった。1945年5月、米軍の戦艦がこれを拿捕したのだ。同乗していた日本軍将校二名は自害し、積荷のウラニウムはテネシー州オーク・リッジに送られ、米国のマンハッタン計画に使われた。ウラニウムなしでは日本はせいぜい1個か2個の小さな原爆を製造できるくらいの力しかなかった。
 1944年、日米両国の原爆計画が完成に近づいたが、このときすでにマッカーサーの飛び石作戦(太平洋の島々を次々に攻略して次への進む戦略)が日本本島を脅かしていた。B-29の編隊が東京その他の大都市を空襲した。仁科は、研究を現在の北朝鮮の辺鄙な村、ハンマン村に移さなくてはならなくなった。移転には3ヶ月を要した。
(続く)


続き →その①

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