権威主義国家「日本」(1)

 323日、シンガポールの「父」、リー・クワン・ユー(李光耀)が亡くなった。91歳だったそうだ。宗主国イギリスのケンブリッジ大学で教育を受け、弁護士としてシンガポールに帰った若きハリー・リーの頭の中にあったものが何だったにせよ、人民行動党(Peoples Action Party:PAP)の一党独裁体制の下に世界に冠たる長期権威主義体制を作り上げた人物として記憶されることになるだろう。李の権威主義体制は、強権政治によって社会主義と資本主義のバランスをとる巧妙な経済政策と、民族政策によって支えられてきた。振り返ってみれば、実に見事な「権威主義の教科書」のような強権ぶりだった。メディアはSingapore Press Holdings / Media Corp によって完全に政府の統制下に置かれ、人民の声はコントロールされ、造反者は厳しく処分される。PAP以外の候補者が選挙で万が一勝とうものなら、汚職事件をでっちあげて葬り去る。シンガポールの民主主義はどこにあるのか、と批判されたとき、李はアジアにはアジア的価値があるのだと居直って見せた。
 
 現在の日本国のPAP、自由民主党総裁(岸信介の孫)が夢見るのは李のような手腕なのかもしれない。岸信介の孫に、李のカリスマ性はない。しかし、1945年以来、アメリカ合衆国の軍事主義の下で民主主義を強権発動によって回避しながら開発優先の権威主義体制を維持してきたという日本国の社会体制は、シンガポールに似ていなくもない。

 権威主義(体制)という概念が提唱されたのは19世紀後半で、その意味は、辞書では簡単に、

▼「自由よりも与えられた秩序を優先する体制」とか
▼「政府が絶対的な―あるいは絶対的に近いコントロールを持ち、そのコントロールは武力(力)によって維持され、人々の意見や司法システムは力を持たない体制」とか
▼「権威への盲目的な服従の体制」
といった定義を与えられている。もちろん、これらは程度問題であり、たとえば全体主義との間に、あるいは擬態としての民主主義との間に明確な線引きができるわけでもない。
 フアン・リンスという人は1960年代に権威主義体制をもう少し明確に識別すべく、権威主義に四つの特徴を指摘した。それは、

1限られた、責任の伴わない政治的多元主義(一見多元主義―例えば多くの政党や政治機関、あるいはグループが存在する―のように見えるが、その多元性は限定されており、しかも、中心となる政治勢力に対して力のないものなので無責任な主張しかできない)

2権力の正統性の根拠は感情的であり、特に、その権力が「分かりやすい社会問題」(例えば貧困や反乱)と闘うための必要悪だと信じられている場合が多い

3)人々が政治的に深く、広く動員されることがないように人々の大規模行動に制限を加える(たとえば、権力への敵対者への抑圧的な戦略や、権力への反対活動の禁止など)

4権力の定義(何ができて、何ができないか)をあいまいにする

の四つだと言われている。これら四つがまったく存在しない体制を現在の世界に見つけることはむずかしいかもしれないが、四つすべてが一定期間に渡って(長期的に)あてはまる場所と言えば、いくつかに限定されよう。その一つは間違いなく日本国だ。

1. 対抗性を持たない多元主義
 最初の特徴をこう呼んでおくことにするが、その意味は、権力を持つ勢力に対抗・敵対する勢力というものが形式的には存在しながら、それらは擬態としての対抗性しか持たず、擬態としての民主政治を演じてみせるためのものになっている状態を指す。
 対抗性は何よりも価値観の対抗性であり、それが多元性の根幹をなすものだ。相手が重要だと考える価値について、こちらは別のものを重要だと考える―そこに対抗性が生じる。対抗性が擬態と化すのは、権力が主張する「重要性」を対抗勢力が受け入れてしまう(そもそも受け入れた上で、枝葉末節的な部分で対抗を演じて見せる、という方が分かりやすいか)ときだろう。
 日本共産党が2003年に天皇制を受け入れ、2004年には自衛隊と言う名の軍隊の存在も受け入れてきたことは、一つの例にすぎないが、日本国の政治状況を簡潔に物語っていよう。天皇制とは権力を神聖化するシステムであると同時に、明治以降は特権階級を温存し、同階級によるぼったくり資本主義を「国益」とする価値観を象徴的に支えるものになっている。

 1951年、サンフランシスコ講和条約締結をもって「連合国」との間の戦争が終結し、日本国は主権を回復したと“言われる”が、実態はアメリカ合衆国が日本の傀儡勢力との間で強引に講和を進め、傀儡政権を維持した。講和の日本側の主体となるべき政治勢力が日本国内で民主的に作られていたわけでも、「連合国」というもう一方の集合的な主体が存在したわけでもない。にもかかわらず「連合国と日本の間に講和が成立した」と称されたことは大きな欺瞞だった。

 アメリカ合衆国を主体とする「連合国」との講和は、太平洋戦争に関する講和でしかなく、1930年代からの中国侵略、アジア侵略は“勘定に入って”いなかった。それゆえ中国(大陸にせよ、台湾にせよ)も、ソビエトも、朝鮮(北にせよ、南にせよ)も講和の主体には入っていなかった。インドはこうした事態に対する疑問から、講和条約への参加を拒否した。
 欺瞞的な講和条約を日本国の名で締結し、米軍の長期駐留を受け入れた日本国政府もまた、連合国同様に人民代表というにはほど遠い存在だった。吉田茂、自由党内閣は翼賛体制に「批判的だった」(?)という理由でGHQに許容されたわけだが、全体主義時代の残滓以外のものではなく、全体主義批判もそこに協力してきたことへの自己批判もないまま、敗戦後のショックの中で市民が必要悪として(あくまで受動的に)受け入れざるを得なかった既得権者を代表する政権でしかなかった。
 欺瞞の講和条約の数年後(1955年)に、この自由党が日本民主党と“保守合同”して自由民主党(自民党)を作るわけだが、その顔ぶれには敗戦前からの既得権者たちがずらっと並んでいる。
 自民党の元総裁の祖父にあたる岸信介は極東国際軍事裁判でA級戦犯被疑者として3年半拘留されたが、GHQの「逆コース」の中で起訴を免れ公職追放された。その岸が(欺瞞の講和条約後)CIAの資金援助で政界に返り咲き、結党されたばかりの自民党の幹事長を経て、60年安保を通すために総裁に据えられた。岸はCIAの金を使ってヤクザ等を動員、60年安保に反対する人々を暴力で蹴散らした。岸と同様にCIAから資金を得ていた正力松太郎(読売新聞社主)はメディア業界に影響力を強め、反政府言論を抑え込んだ。
 日本国はシンガポールのように社会主義を標榜したことはなく、逆コース前の一時的な福祉社会路線の残滓以外は圧倒的な資本主義化路線を歩んだと言えるかもしれない。そのため米国同様に表立っての言論統制はできなかった。そこで使われたのが、(例えば逆コース時代の国鉄三大ミステリーに代表されるような)でっち上げのテロ事件もどきだった。下山事件、三鷹事件、松川事件はどれも労働運動を共産主義と、そしてさらにテロと結びつけて封殺する手口だった。60年代、70年代の社会運動にも同様の手口が使われ、社会運動は一様に「過激派」とレッテルを貼られ、一般市民の敵であるかのように巧妙に情報操作がなされた。(Awil Kazuo 続く)

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