五年を迎える今

 20113111445分まで、自分自身が被災者・避難者になるなんて思いもしていませんでした。 
 1446分に引き起こされた地震、そこから誘発された原発事故により、震災前に思い描いていた私の未来は奪われることになったのです。
 福島県安達郡大玉村という8000人の安達太良山の麓に広がる村は、緑豊かで人も温かく、米や野菜、水が清らかで美味しい場所でした。
 そこで、ログハウスを建て薪ストーブで暖をとり、その火からのエネルギーで食事を作り、ゆくゆくは庭に竈や石窯を作り、出来るだけ電気を使わず自然に優しい生活を営んでいく予定でした。
 その夢もすべて奪われたのです。

 原発から60kmほど離れていた私の元には、312日の爆発のことはすぐには情報として入って来ませんでした。ですから、1314日は食料を買い求め、友達の家に水を運び、ガソリンを求めるのに外で動いていました。14日の3号機の爆発の時間の頃には、ガソリンを買うために2時間ほど外で並んでいました。その日の夜にお風呂を入った時に顔を洗うとヒリヒリし、咳がしばらく続きました。その時には、日焼けをしたのか? 排気ガスで咳が出るのか? とのん気に考えていましたが、放射性物質の体への影響を知れば知るほど、私と娘はあの時に大量に被ばくをしたのではないかと思えてなりません。

 その後の娘の体調は、それまで育ててきた時とは明らかに何かが違うと思えるようなものでした。
 震災までは年に一二度くらいしか熱を出さなかったので、避難を決めるまでの4ヶ月間に45回の高熱を出しました。鼻血も今までとは違う、噴出するようなものやなかなか止まらなかったり、塊が混ざっていたりと心配なものでした。その年、初めて皮膚疾患になったり…そんな話をまわりのお母さん達に話すと、うちも鼻血が…うちも皮膚疾患に…と、うちだけじゃない? 何が起きているのだろうとどんどん不安に気持ちが膨らんでいきました。

 精神的なストレスもあったと思います。
 自然豊かな環境で過ごしていたので、外にあるものはすべて遊び道具でした。
 庭に落ちている石も土も砂も、草木や木の実…それを触ることを禁止しなくてはいけなくなったのです。当時5歳の娘と幼稚園の友達たちは、幼稚園のバスを待つ間、誰かが葉っぱや石を触ると子どもたち同士で「放射能がついているから触っちゃいけないんだよー」と注意し合います。
 私がその年齢のとき、『放射能』なんて言葉は知らなかった。自然は友達だった。そんな姿を見る度に福島で娘を育てることに限界を感じていきました。

 そんな不安も気兼ねなく話せる友達は数人でした。
 原発事故が起きて数か月しか経っていないのに、原発の事故は継続中なのでその不安を口にする神経質な人、面倒な人と思われるような雰囲気がありました。その頃すでに避難区域以外から避難している人たちもたくさんいましたが、そんな人たちのことを「福島から逃げた人」「福島や家族や友達を捨てた人」「復興に向かって頑張っていかなくちゃいけないのに…」と避難を非難されました。
 避難区域以外の地区は、線量もたいして高くないから体に影響はないと言われていたからです。
 でも、震災から一年くらいは私の住む大玉村は0.81.2マイクロシーベルトくらい線量はありました。それは震災前の0.04マイクロシーベルトからすると2030倍です。
 このまま住み続けたら、原発事故がなかった時の一生分の被ばくを娘が成人する時くらいには受けてしまう。それって本当に影響がないの? 絶対おかしいよね。それだけの被ばくをするってことは、事故前ならならなかった病気になるかもしれない。娘が病気にならなかったとしても、娘の生む子どもは? その子どもが産む子供は? 何世代にも続く影響があるという放射性物質の影響をあまりにも甘く見ているような気がして、影響がないという言葉は信じられませんでした。
 でも、絶対にこうなるという確証もない中、避難を強行する理由も見つかりませんでした。

 それは私の中の迷いでもありました。「不安だから避難をした、でも一旦避難を決めてしまったら帰って来れなくなりそうだったから」「避難を決める時より、帰るという決断をする方が何十倍も何百倍も難しい」と感じていたからです。どうなったら安心? 帰れる? 帰ったあとに娘が病気になったら、私はきっと後悔して一生悔やむだろう?ずっとここにいても同じ…だとしたら、どの決断が一番正しいのかわかりませんでした。
 そんな悩みの中、避難を決断出来たのは娘のひと言でした。震災の年の夏休み、被ばくを避け神奈川県の実家で過ごし、夏休みが終わり福島に戻ると告げた時に、「福島は怖くて帰りたくない」と言ってくれたから、そこで決断をすることが出来ました。

 いざ避難が決まっても楽なことばかりではありませんでした。
 「避難できてよかったね」という言葉に、私は不安を口にできなくなり、避難が長引くことで夫との関係も悪くなり、一時期は鬱状態で起き上がれなかったり、外に出ることさえ出来ない時期もありました。先の見えない不安に「消えてしまいたい」と思うことさえありました。
 その中でも私を支えてくれたのは娘の存在でした。「消えてしまいたい」と思っていた時に、何も言わないのに娘がポロポロ涙をこぼしながら、「ママどこにも行かないで!」と言ってくれたのです。その時に目が覚めた気がしました。
 「この子を守ると決めて避難したのに何を考えていたのだろう?」これからは、この子のために生きて行こう。何を決めるにも、この子にとってベストな選択をしていこうと胸に決めました。
 それからは、落ち込んだり不安になったり辛い気持ちになったりしながらも、迷わずここまで歩いてこれたような気がします。

 でも、月日が費やされても一向にいい方向に向いて行かない国の意向や、忘れ去られているような社会の雰囲気に時々とてもむなしくなることがあります。
 5年経った今、どんどん風化し忘れられているような気がします。

 この3月で震災から5年が過ぎました。
 20117月から始まった娘との母子での自主避難生活も4年を超えました。

 この4年以上の避難生活の中で、日々気持ちの変化がありました。
 最初の一年は先の見えない不安に押し潰されそうになり、毎晩泣いたり眠れなかったり苦しくなったり、暗闇のなかにいるようでした。
 2年目は避難先で居場所が出来、泣きながら苦しみながらも、少しだけ顔を上げられるようになりました。
 3年目は日々の中で、楽しいことをすることに罪悪感を感じることが減りました。
 4年目、一年単位でものを考えられるようになり、勉強を始めました。
 現在、今の場所での生活が少しずつ安定してきて、自分らしく生きることを考え始めました。

 一見、少しずつでも元気に自分の生活を取り戻しているように見えますが、この5年目に自分の中にある不安や抱えた問題が何一つ解決していないどころか、そこに目を背けていたことに気付いてしまい、それに向き合ってみる覚悟を決めました。
 それに向き合い少しでも整理し、克服しないことには自分らしくいることが出来ない気がしたからです。
 ですが、その作業も簡単なものではありません。

 一人では解決できないことなので、いろんな人の力を借りていますが、私自身が抱えている問題を理解してもらうこと、自分の中にある複雑な心境をうまく表現することさえ難しく、それをどうやって解決したらいいのか、どうすれば問題が克服できるのかさえ見つけられていません。

 何より、一番大切なはずの「自分のこと」に向き合おうと思うまでに5年もかかってしまいました。
 そして、問題を解決するには何倍もの時間がかかると感じています。

 それは福島の問題も同じことです。
今では福島のことも被災地のことも、話題に上がることがほとんどなくなりました。
 でも考えてみると根本的な問題は何も解決していません。
 原発事故のこと、放射能による体への影響のこと、これからの生活のこと、何ひとつ明確な説明や答えをもらっていません。
 それにも関わらず、「復興」「再稼働」ばかりが進められていることに違和感を覚えます。

 何が問題だったのか、その影響で本当はどんなことが起きていたのか、それによってどれだけの被害があったのか、今現在はどんな状況にあるのか、それがこれから先の未来にどんな影響を与えるのか、何一つわからないままです。
 それを答えてくれる人が誰一人としていないこと、それが一番の問題なのではないかと思います。
 それがないままでは、「復興」のスタート地点にも立つことが出来ないですし、私たちは生活の再建を考えることさえ出来ません。震災後からずっと私はそんな風に感じています。
 そしてこれから先の未来に、原発事故の影響だと思われる被害があった時に解決の手段があるのかさえ何も保証されていません。
 そう考えると震災直後から、私たちの生活はずっと先の見えないまま5年も経ってしまったことになります。

 私の願いは震災直後から変わっていません。
 私たちのような思いをする人を、これから先の未来に出してはいけないということ。
 そのために私たちには何が出来るのか?
 今、一番何が必要なのか?この5年の節目に考えていかなくてはいけないのではないでしょうか。

 先日、震災当時4歳で現在小学校3年生になった娘とこんな話をしました。
 私「もし福島の話を聞かせてほしいと言われたら何を話す?」
 娘「自分の体験した事。車の中で地震にあったとか、放射能のこととか。」
 私「そうなんだね。なんでそれを話したいの?」
 娘「わかってほしいから」
 私「どんなことをわかってほしいのかな?」
 娘「いろいろ大変だったこと」
 私「じゃあさ、いろいろ大変でかわいそうだったねって思ってもらいたいのかな?」
 娘「違うよ。みんなも同じことがあった時に参考にしてほしいの。」
 私「へーそんな風に感じてるんだね。じゃあ、今は元気になってるからかな?今元気で頑張れてるのは、どこから力が出てるの?」
 娘「それはね、家族がいたから!家族が大切なんだよ。」

 私はこぼれ落ちそうになる涙をこらえながら、娘の誇らしげな顔を見つめることしか出来ませんでした。
 ここにすべての答えがあるような気がしました。
 大人は自分の価値観でものを考え発言し、時には人を傷つけることもあるけど、あんなに小さかった娘が、この5年間で学んだことは、
「みんなに自分と同じ悲しい思いをしてほしくないこと」
「家族やまわりの人たちの存在が大切なこと」
だった。
 私はいつも娘やこども達に教えられることばかりだとあらためて感じました。

 そんな風に考え、前を向いているこども達の未来を、今の大人たちはどう考えているのだろう?
 「こども」を守るため、「こども」の未来を明るいものにするためにみんなが気持ちを合わせることが出来れば、日本も今のような流れにはなっていなかったんじゃないかな? と思います。

 無関心であったために、原発をここまで容認してきてしまった大人の責任として、「こども」の未来を、幸せを一番に考え選択できる大人でいたい。そのために出来ることとして、語ることを伝えることをあきらめずに続けていくこと。「こども」の未来を一緒に考えてくれる仲間をふやすことに、力を費やしていきたいと思っています。(鹿目久美
 





コメント