活動報告「国策と地方自治とひとびと」(6月4日、於象仔書屋)
このイベントでは、NHK長野放送局とSBC信越放送(日本の長野県にある地方テレビ局)が制作した満蒙開拓団に関する2つのドキュメント作品—情報番組「しるしん。信州を知るテレビ」の特集「明らかになってきた真実」(NHK長野、2011年10月7日放送)、「SBCスペシャル 刻印〜不都合な史実を語り継ぐ〜」(信越放送、2013年7月31日放送)—を観ました。
番組やイベントの内容説明の前に、まずは「満蒙開拓団」について少し説明。これは1931年から1945年のアジア太平洋戦争の敗戦までに、日本から満州に送られた農業移民を指す呼び名です。1931年には満州事変、翌年は満州国建国と、満州の軍事占領と支配を成立させた関東軍は、広大な満州の開拓・維持の担い手として農業移民を要求しました。当時の日本は恐慌下にあって、政府内には満州移民に強い反対があり、特に大蔵省が難色を示したので、当初5年間は「試験移民」にとどまりましたが、1936年の二・二六事件(陸軍青年将校が起こした軍事クーデター。蔵相高橋是清、内相齋藤実らが暗殺された)によって軍部の政治介入が非常に強まった結果、翌1937年には満州への移民は「国策」となり、1956年までに500万人の日本人を満州に送る、という計画が実行に移されました。実際には敗戦までの15年間に、満蒙開拓団として約27万、満蒙開拓青少年義勇軍として8万6000の人びとが満州に渡りました。これらの人びとは1945年8月のソ連の対日参戦で関東軍から置き去りにされ、8万人といわれる多大な犠牲者を出したほか、中国残留孤児/婦人、シベリア抑留者として、故郷に帰還できなかった人も多かったのです。
長野県は約37000人という、都道府県別にみて突出した数の農民を送り出した県ですが、とりわけ多くの開拓民を送出した地域(約8000人)である南部の飯田・伊那地方では、2002年に活動を開始した市民団体「満蒙開拓を語りつぐ会」(2013年に解散。その後「満州移民を考える会」が発足)が、開拓民だった人びとの聴き取りによる当時の事情と記憶の掘り起こしに力を注ぎ、2013年の満蒙開拓平和記念館の開館に至っています。
さて、二つの番組は、いずれも満蒙開拓団の当時の関係者の証言をもとに作られています。まず「刻印〜不都合な史実を語り継ぐ〜」は、開拓移民や青少年義勇軍として送り出された側、送り出した側双方の証言者たちを登場させています。それは敗戦後開拓民の集団自決に関与してしまった元青少年義勇兵、逃避行の途中で母を失った女性、中国残留孤児として帰国を果たしたが、生き別れた兄が保証人になってくれず帰郷できなかった女性、教え子を青少年義勇軍に送り出した元教師などです。彼女/彼らの証言には、満蒙開拓団/義勇軍の〈加害性〉(多くの入植者が満州で土地を安く買いたたいて地主となったことや、中国人の殺害、送り出した教え子を死なせてしまったこと、など)についての言及が随所にあり、また、証言者たちが抱え込んだ悲しみ、苦悩、後悔、罪の意識などが、今に至るまでずっと続くことを語っています。
また、東日本大震災の年に制作、放送された「しるしん。」は、当時の南信州で、なぜ、そしてどのように満蒙開拓移民が送り出されていったのかという、「国策」が市町村を縛る仕組みと、市町村の組織にいて実際に開拓移民を集めた現場で何が起こっていたのかということに注目し、多くの証言をもとに進行していきます。
疲弊していた農村に対して、当時の日本政府は、満蒙開拓移民という国策を、復興政策(農村経済更正計画)と引き替えにすることで進めました。国から長野県に、そして長野県から村へ、というふうに移民の人数の割り当てが決まってゆき、割り当てを達成した村には助成金が交付されたわけです(ここで注意しておかなければいけないと思うのは、地方自治体のあり方が、戦前と戦後ではすこし違うことです。戦前には府県知事は内務省の官僚で、政府が任命するものでした。市町村長も公選ではなく、議会によって選任されたお役人です。これらを選挙で選ぶようになるのは1947年以降です)。県知事からの通達として、農村経済更正計画の事業と満州移住は「不可分」である、つまり、村が助成金を受けるためには村から一定数の移民を送り出すことが条件付けられていたのです。
この状況で何が行われたか。開拓民に対しては、日本での貧しさから逃れるために満州に希望を求めた、というイメージがあると思いますが、長野県では、開拓団を希望する人は少なく、「村会議員や区長が骨を折って、無理やり、何でもかんでも連れ込んで、いろんな方が満州に」行ったということです。移民を送り出し、ノルマを達成した村には、助成金が交付され、生活道路や倉庫など、村が「必要」としていた施設を設置することができます。いっぽう、勧誘を拒否した人は「国賊」と言われ、協力的ではなかった集落には、学校に教員の派遣を停止されるなどの懲罰的な対応があったという証言が、彼らによってなされています。
ここから分かるのは、村が国や県の圧力にただ屈した、というばかりでなく、貧しい村にも、助成金という、移民送出を受け入れる理由があったということです。移民と助成をめぐる村と県との関係について、当時清内路村の収入役であった人は次のように語ります。
「貧乏村というのはもう助成が受けられるというと、ウンもスンもなくてすぐに飛びついちゃう。」
「村がすねてしまってやらなくなると、県が今度は困る」
「私なんかは県のそこにつけこんでよくやったもんです。それじゃあこの事業(満蒙開拓団の送出)をこなしたらどれだけ面倒をみてくれるかとか。こっちも必死ですから」
国策の末端で移民の確保を担った村長や役人の駆け引きは、見方を変えれば、貧しい村を少しでも豊かにするための努力ということができます。しかし、彼らは敗戦後、移民から多くの犠牲者や未帰還者を出した良心の呵責、後ろめたさのなかで生きることになります。戦後、自分が送り出した開拓移民のほとんどが満州で命を落としたことへの自責から自殺したある村長が残した日記には、彼が当初開拓団を送るべきか悩んだが、皇国農村(模範村)に選ばれるためにそれを決意したことが記されています。財政難にあった彼の村は、移民を送出したおかげで生活道路を得たのですが、それは開拓移民の多数の犠牲と引き替えになったのでした。
コメンテーターとして登場したノンフィクション作家の吉岡忍さんは、番組のまとめとして、満蒙開拓団にみられるような、国策と引き替えにした地方助成の仕組みが、戦後の国と地方自治体との関係‐例えば原子力発電や震災復興のための助成金の問題‐に引き継がれていることを強調します。このことは重要な指摘であり、良心の呵責の中で生き、また自らを裁いた現場の人がいた一方、「(予算が国庫から地方に分配される)仕組みを作った人間は責任を問われないままに生き残り、またその仕組みも残っている」という言葉には「お上頼みの仕組みからの脱却」、〈本当の〉地方自治に向けての強い批判が込められているといえます。この番組は東日本大震災の半年後に放送されましたが、ひょっとしたら、テレビでこうした発言をする、あるいはこうした番組を放映すること自体が2016年の今では難しいかも知れません。
さて。見終わった後、象カフェに集まった方たちからは、帰国した満蒙開拓移民に戦後、補償がなされたのか(なされませんでした)、反省すべき歴史を共有し、検証することの意味について等、様々な質問や意見が出されました。その中で、この手の番組の視点には「正義」が欠落している、という大切な指摘について、その意味を考えておきます。
もちろん、二つのドキュメントには「“日本人”に、過去を反省的に振り返って欲しい」という狙いがありますが、責任を追求し、明らかにする姿勢には乏しいという印象を受けます。「不都合な史実」からは当時の事実と、証言者の苦悩や罪悪感が伝わってきますが、その証言はともすると満蒙開拓団の追憶のように感じられます。それに比べれば、「知るしん。」は、満蒙開拓団送出の仕組みを明らかにするという意味で分かりやすいのですが、責任の所在に明確に踏み込んでいるわけではありません。直接移民を募った人びとが末端として属していた「移民送出の仕組み」と、その「仕組みを作った誰か分からない人」に言及することによって責任者の顔は見えなくなり、責任が抽象的なものに見えてしまいます。
当時移民送出の現場にいた関係者がやってしまった事の責任は、村の維持と目標達成に向かう“真面目さ”、国策の末端にいて感じたであろうジレンマ、戦後の苦悩といったものと引き替えに不問にできるのでしょうか。もちろん、彼らに対する仮借なき検証と追及は耐えがたいことだと思います。ただ、特に共同体の利益に資する、あるいは少しでも村民の暮らしを豊かにする、という目的で正当化され、美徳とされてしまう“真面目さ”は、「正義」とは無関係のものではないか、そこには一貫した正しさというものが欠落しているのではないか。戦後まで引き継がれている「国策と引き替えにした地方助成の仕組み」を断ち切るためには、少なくともこのような問いを立て、考えることが必要なのでは、と思います。(大西仁)

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