アメリカ合衆国、法を曲げて日本のプルトニウム蓄積を援助⑨

2012年4月9日 National Security News Service(NSNS)の記事、United States Circumvented Laws to Help Japan Accumulate Tons of Plutoniumを、今、金曜日の「英語で読むかい」で読んでいます。ネットにも、この記事の全訳はないので、毎回読んだところまで(連載で)みんなで考えた訳を掲載していきます。今回はその第九回です。原文はこちら

 
日本が核武装することはアメリカ軍の資源の浪費を救うことになる。朝鮮半島の陸上兵力二大隊の維持、核装備した船と飛行機による太平洋での中国及びソビエト極東地域のミサイル基地に対する防備の必要性が、ペンタゴンの主要な使命である中央ヨーロッパの陸上全面戦争への準備体制への足かせになっていた。レーガン政権の戦略は、ソビエトという戦争マシンに、それが壊れるまでプレッシャーを与え続け、ソビエト連邦とその衛星国を手に入れることだった。日本がもっと攻撃的に核武装することは、その為の大きな助けになる。だから、国防省はプルトニウム海上輸送の戦略部分で反対はしていたが、プルトニウムと核技術の日本への移転への反対はただ形式上のものだった。
Auerは、舞台裏で、こうしたペンタゴンの心情を増幅させることができた。1986年の終わりに、ペンタゴンはいやいやながら、プルトニウムの海上輸送は主要な拡散リスクを構成しないというDunnの報告書に合意した。「ペンタゴンは主導的な組織ではなかった」とGaffneyは言う。「もし国防省があらゆる手段を尽くして戦ったとしても、国務省とエネルギー省は、恐らく反対派を打ち負かすに足りる支持と国防省の主要な人物のキャリアに対する野心を結集させたであろう。」と。

サバンナリヴァーとハンフォードの秘密
ペンタゴンはクリンチリヴァーの技術が核兵器への利用に最適であることを知っていた。理論的な研究の多くはオークリッジの国立研究所で行われていた。しかし、設備の開発や多くの実践研究は、アメリカの他の主要な核兵器研究所のうちの二つである、サウスキャロライナのアイケン近くにあるサバンナリヴァーサイトのプルトニウム分離キャニオンと、ワシントン州のハンフォードで行われていた。
ワシントン州の設備は1940年代の初めにマンハッタン計画のためのプルトニウムを分離する目的で作られ、1950年代と60年代にサバンナリヴァーに新たに拡大設備が作られた。クリンチリヴァー計画がフル稼働するようになると、かつて広島と長崎を壊滅させた爆弾を最初に作りだしたこのプラントは、水素核弾頭を作るかたわら何十人もの日本の科学者たちの訪問を毎年受け入れていた。計画の停止が避けられない状況になった時、日本の科学者たちはさらに多く訪れるようになっていた。
増殖炉はプルトニウムで動くものであり、プルトニウムはそれ以外には核兵器にしか使いようのないものである。プルトニウムを作り出すいかなる技術も、定義上核兵器プロジェクトと位置づけられる。アメリカ合衆国では、このようなプロジェクトは政府が独占的に所有している限られた核兵器施設でしか行われていなかった。トルーマン大統領は、核兵器能力の民営化が内包するリスクを認識していたので、アメリカの爆弾計画を民営企業と軍隊からは独立したものにした。
クリンチリヴァー計画の最もセンシティブな技術は、これら遠隔の核保留地【注:サバンナリヴァーとハンフォード】に置かれていた。日本産業界のトップたちは【在日】米軍基地が作られた当初からアメリカ合衆国がそこに何を持ち込んでいるのかを知りたいと思っていた。【クリンチリヴァーの技術移転に関する】日米合意では5年間、日本とアメリカの科学者が共同で、多くの資金が日本の電力会社から出資された増殖炉計画に従事することになっていた。国防省の計画指揮官であるWilliam Burchの言葉を借りれば「ポイントはゲームに留まること」だった。ゲームに留まるためには、アメリカ合衆国は日本のルールでプレイしなくてはならない。そして、日本のルールとは核武器計画そのものを移転しろ、というものだったのだ。
日本の要求リストのトップにあったのは、サバンナリヴァーサイトにあった洗練されたプルトニウム分離設備で、それは当時すでに数十年にわたって、兵器に使えるプルトニウムを作り出していた。サバンナリヴァーは、遠心分離機を製造、実験した。この遠心分離機は、後にアルゴンヌ国立研究所でさらにテストされた後、【茨城県東海村のリサイクル機器試験施設】RETFで使用するために、日本へ送られた。日本は、自分たちでハイグレードなプルトニウムが製造できる高性能プラントを必要としていた。このプラント建設中、日本は精製をフランスとイギリスに頼んだ。
アメリカのサバンナリヴァーでの軍事プルトニウム製造の経験は、日本の計画にとって理想的だった。他のアメリカの武器研究所も日本の計画に貢献した。ハンフォードとアイダホのアルゴンヌ西研究所は何千時間もかけて、常陽増殖炉の為のプルトニウム燃料機器のテストをした。日本の科学者たちはこれに全面的に参加し、アメリカの核兵器製造産業全体を事実上自由に使えたと言ってよかった。もし日本がいつか核兵器配備をしたならば、それは、この日米合意による武器使用可能な技術の全移転によって可能になったと言える。

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