カルチャージャム Culture Jam 商業文化をハイジャックする
同名のドキュメンタリーを聊聊した。Culture Jam って何だろう。Wikiには(ちょっと長いけど)次のようにある。「既存のマス・メディアを変革しようとするムーブメントの一つ…メディアの物理的なあり方やコミュニケーションの方法論はそのまま利用するが、流通するコンテンツや運営方針に批判精神を持たせようとする。しばしば既存のメディアの経営方針やコンテンツの所有者の意図を敵対的に無視する形で行われる。…活動には様々な形態があるが、反消費主義、反商業主義という点で一致している。…ただし単なるネガティブキャンペーンとは一線を画し、むしろ一般のひとびとに対し、企業イメージや製品イメージの裏に隠蔽されている事実に気づかせようとすることに主眼をおいている。…作品の公表にあたってはゲリラ的な手法を用いることも珍しくない。」これをみると、Culture Jamって【正義感にもとづいた真実暴露】というか、フレイレの「意識化」(awareness raising)というような指向性(ある定まった方向性)があるように見える。映画の中でも解説者の大学の先生がそんなようなことを言う。これ、でも、私的には大きな違和感がある。
私の語彙で言えば、Jam はJam SessionのJam。音楽屋さんが集まって、その場で即興的に“一緒に”演奏する、あれだ。Do you wanna jam? Why not? っていう感じで、相手がどんなノリか、心持ちか、ジャンルか、それを知らなくても(むしろ知らないほうが)ジャムは面白く新鮮(あるいは全然ノリの悪いものになるか)。私の使用語彙としてのジャムのもう一つの意味は、「あれ、レバーが動かないよ、どっかジャムっちゃってる」というときのジャム(何か挟まってるとかの機械的な故障)。交通渋滞のtraffic jamなんていうのも言う。そういうところから私的な意味構築するとしたら、culture jamというのは、『ものごとのやり方とか、認知の仕方とか、何が楽しいかとか何は忌避すべきかとか、そういうこと(まあ文化と言っておくとして)において位相・次元を異にする複数の主体が即興的に一緒に何かをやろうとして、とんでもないどん詰まり状態に陥ってしまって、故障かこれは、と思えても、ときどきそこから新鮮な何かが生まれる。でも、生まれるかどうかなんて、予測はつかないし、予測できないんだから合目的的に(こんな言葉あったっけ?予定調和的に?)生み出すために「やる」なんてそもそもできない。そういう集団的な行為。』っていう感じになるだろうか。
映画の中には、そうした予測不可能な楽しさは表現されていない。
私は教育業界で飯くってるけど、「予測される成果は何か」とか「シラバスを詳細に書け」とか「予測した成果が得られない場合、どう改善するか書け」とか、そういうのに多大な時間を取られている。過程が楽しくて、その過程からもしかしたらもっと楽しいものが生まれてくるかもしれない…なんて書いたら首になる(かも―書いたことないけど)。ほしいものが予め決まっている。決まっていなくてはいけない。企業で言えば収益。教育で言えば、何たら能力―できないことができるようになること。ほしいものが予め決まっている、っていうことは、文化的に硬直してるし、画一的(monolithic)なんだけど、「収支決算表は神様です」というわけだ。私一人で何かをするときには「ほしいものが予め決まって」いてもいい。でも、誰かと一緒にやるときには「私がほしいもの」が絶対というわけにはいかない。妥協するかもしれないし、考え方や欲望を変えるかもしれない。そんな当たり前のことが公に無視されている。教育がjam sessionの要素をばっさり切り捨てた。(と、どん詰まりに思えるところが、実はjamってるのかも…と混ぜっかえされたら、それもそうかも)

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