ねつ造される対立:米国慰安婦記念碑(2)
Palisades Parkは公園の名称ではなくて市の名前。2010年10月23日に市の図書館前に「慰安婦」記念碑を作った。
碑文は『1930年から45年までの間、大日本帝国政府の軍隊によって拉致された二十万人を超える女性たちを偲んで―彼らは「慰安婦」として知られているが、彼らが受けた人権侵害は、すべての人々が決して無視してはならないものであり、このような人類に対する犯罪は決して忘却されてはならない。2010年10月23日、“有権者の会”および“パリセイズ・パーク政府”』と書かれている(訳は村山の拙訳)。
2012年5月1日、パリセイズ・パークのロトゥンド市長はニューヨークの日本総領事、廣木重之の突然の訪問を受けた。最初は何の話か分からず、単なる表敬訪問かと思ったら、廣木は記念碑を撤去してほしいと言いだした。撤去してくれたら市に対して桜の木を寄贈したい、図書館にも寄付をしたい、という話だった。市長は丁重に断った。5日後の5月6日、今度は津田一郎参議院議員ほか三名の自民党議員が市長を訪問。用件は同じだった。ロトゥンド市長は「碑は撤去しませんが、わざわざお越しくださって感謝します」と言って追い払ったそうだ。このことがアメリカ合衆国のメディアに流れ、それまで一般には無関心だったアメリカ合衆国世論は記念碑建立=正義という方向に向かい始めたと考える人たちも少なくない。(アナベル・パクさんが指摘するように自民党と歴史修正主義者たちのもう一つのオウン・ゴール)
前述したようにパリセイズ・パークは人口の過半数をアジア系が占め、中でも朝鮮系は多いと言われている(右図)。記念碑の建立を支持する朝鮮系の住民の背後に政治的な力が働いていることは、日系人の反対同様、当たり前のことだけれど、韓国大使館や領事館、政府関係者がグレンデールやパリセイズ・パークに乗り込んできて云々という話は聞かない。(あるけれどメディアにはリークされていない、ということもあるかもしれない。)“普通の人たち”から見れば、自民党と日本の歴史修正主義者たちが権力と金にものを言わせて、何かを隠ぺいしようとしている、と見えるだろう。
ねつ造される対立
“慰安婦”をめぐっては、アメリカ合衆国でも、日本でも、あるいはこの二つのメディア大国の傘下にある諸地域でも「コリアと日本国の対立」のように描き出そうとしている。だからグレンデール事件でも日系人は猛反発、コリアン・アメリカンが推進、という話として伝えられる。しつこいけれど、グレンデールのマジョリティは白人であり、そのマジョリティが記念碑の建立を(形の上だけであっても)支持している。その“普通の人たち”の決断、判断がどのようなものなのか理解できなかったら、なぜアメリカ合衆国で?ということも分からなくなる。
日本の“普通の人たち”はメディアが「韓国からまた文句」といったことを(領土問題とも重ねて)流すために、自衛規制で「慰安婦問題は政治的なねつ造だ」という考えに与する方を選ぶ。コリアの“普通の人たち”はメディアが「日本がまた否定」といったことを(領土問題とも重ねて)流すために、こちらも自衛規制で「日本は厚顔無恥な嘘つきだ」と考えやすい。絵に描いたような「作られる対立、ねつ造される対立」。
捻じ曲げられる「国家と人間の関係を問い直す問題」
韓国でも中国でも台湾でも「政府」は経済援助と引き換えに日本の戦争責任追及を放棄したと言われる。「政府」が勝手に人々の被害を「好了、好了」と言う。加えて戦後45年間も被害者が言いだせない状況を作り出してきた。言いだすことができるようになったら、今度はそれを自分の利益のために使おうとする。日本「政府」は、被害者からの訴えに対して「そんな事実はない」と突っぱねた。状況証拠が出てきて初めて“認めた方が対応しやすい”ので認めた(河野談話)。しかし再生日本という物語にはどうしても邪魔になるために、訴え出た人々を“公的に”「嘘つき扱い」し始めた。「政府」とはいったい何者なのか。
冷戦の戦略として作られてきた東アジアの諸政府には、冷戦終了後も同じ血が流れているのではないか。冷戦がその前の熱戦(二次大戦)の連続であったことを思えば、この「血」は冷戦前から変わっていない。既得権者の代表が政府であり、既得権者の系譜は脈々と受け継がれているのではないのか。
慰安婦問題とは、国家と人間の関係を問い直す問題なのだと思う。福島原発事故から浮き彫りになってきたエネルギー問題も、同様に既得権者集団としての国家とそこに飲み込まれてしまった人間との関係を問い直す問題なのだと思う。それらをコリア対日本とか、原発推進派対反対派、というバカげた対立に矮小化させてはいけない。



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