身体とは何なのか?:カンジョン村平和キャンプの中の「国」
済州島、カンジョン村で行われた平和キャンプに参加した。この催しは「平和の島連帯」(組織というよりもネットワーク)が行っているもので、毎年夏にメンバー(?)各島持ち回りで、今年で5回目の開催になる。ちなみに去年は自衛隊レーダー基地計画の脅威にさらされる石垣島で、その前は台湾島で行った。今年はすでに韓国海軍基地が完成し、10月には世界の海軍を招いて観艦式が行われる予定の海軍基地を有するカンジョン村で行われた。
キャンプの中でT氏は、こう述べた。「みなさん、身体の中心はどこかと聞かれたら何と答えますか。心臓?心?おへそ? 私は、身体の中心は、そのときに傷んでいる場所、病んでいる場所だと聞いたことがあります。指を怪我して痛いときには、その傷ついた指が身体の中心になる、というわけです。済州島、カンジョン村は、そういう意味で韓国の中心だと私は思います。」これに対して「そうだ、そうだ」という拍手が、キャンプの参加者の間から沸きあがった。私もつられて拍手をしながらも、何かにひっかかったのだけれど、それが何なのか、そのときはよくわからなかった。
その次の日だっただろうか、日本人のSさんが少し話されたときに、彼女は「東アジアの連帯を考える上で、最も障害になるのは日本人の歴史認識」であり、今の日本を見ると「私は日本人としてはずかし」く、「日本人の認識を変えていく必要がある」という趣旨のことを言われた。私はこれを聞いて、前日の「ひっかかり」が何だったのか、わかったと思った。
T氏の「身体の中心の話」は、十分に説得力のあるものであり、実感できるものであるのだけれど、済州島カンジョン村海軍基地という傷が「韓国という身体」についた傷なのだと認識する点に、私はにわかに賛同できなかったのだ。韓国という<国>が一つの<身体>であり、そこに含まれる自然や生命が韓国という身体の(有機的な)一部なのだ、という発想ができなかった。
問題は、地方を犠牲にしてもそれを痛みと感じない国、自分は一個の有機的なまとまり=身体であると標榜しながら、そうであったことなど一度もない国家というものに対して、それが標榜している身体性神話を強化することが国家に抵抗する人たちにとって本当に役に立つのかどうか、ということだ。T氏の言わんとしたことは、身体というものが、(いい言葉かどうかわからないけれど)市民社会とか、私たちの連帯、あるいはまた人類とか地球といったものの謂いであったなら、それがいかに陳腐な表現であれ、私の頭にはスーッと入ってきていたと思う。
Sさんの話も、言わんとするところは分かるような気がする一方で、ちょっと深刻かもしれない問題を感じてしまう。日本人としてどう考えるべきか、どう認識するべきか、といった物言いそれ自体が相当ファッショなものであることは改めて言うまでもないだろうと思うのだけれど、それがSさんのような話の文脈―歴史修正主義への抵抗という文脈―で言われると、さほどの抵抗なく受け入れられてしまうとしたら恐ろしいのではないかと思う。
一部の戦争責任論で言われる「日本人としての責任」とか、「日本人としての加害者性」といった議論も同じだ。日本人というアイデンティティを有機的なつながり、血のつながり、のように錯覚させ、そこに国家や民族という有機的な身体を所与のもの、交渉できないもの、規定のもの、ほかの関係とは別格の特権的なものとして見て扱う、そういう扱い方というか、見方というか、認識の仕方がある。ここにも国=身体という危険なメタファーが働いているように見える。
日本国は、広島や長崎が新型爆弾によって壊滅しようと、沖縄の人々が生業を営んできた土地を暴力で取り上げられて基地が作られようと、米軍施政下に置かれようと、福島が汚染されようと、痛みは感じない。米国国家はルイジアナ州の黒人がどうなろうと痛みを感じるどころか町がきれいになってよかった、新自由主義政策が自由に実施できてよかったくらいにしか感じない。国家が身体であるというメタファーは、都合がいいときだけ使われるけれど、むしろそうではないからこそ私たちの問題の多くは発生している。
日本国はよく沖縄に寄り添う、と言うけれど、病人に寄り添う看護人というイメージだろうか。沖縄の問題は、日本国という身体の一部の問題ではなくて、違う身体だからこそ「寄り添う」メタファーが可能になる。
「天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によると、その占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる」(いわゆる沖縄メッセージ/天皇メッセージ、1947年9月に米国国務省に伝えられたヒロヒトの意向)としたことに対して、後年1979年に「日本がドイツや朝鮮のように分裂国家にならずにすんだ(1979年『入江相政日記』によるヒロヒトの言葉)」とのたまった国家元首の頭の中で、沖縄は日本の一部ではなかった。
自然への攻撃、民主主義への攻撃は、国というレベルで解決できるものではない。そんなことは近代が終わりを迎えたときに分かっていたことだ。まだ、しかし、今になってもそんなことを言わなくてはならないのは、911以後の世界で頭をもたげてきているネオ・ナショナリズムの潮流が、平和活動や反戦活動にも襲い掛かってきているからだ。(アウイ・カズオ)

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