ベティー・リスティーノ氏に聞くコルディエーラ先住民族運動の現在②
リスティーノ:日本は1941年12月8日、真珠湾を攻撃して数時間後にバギオを爆撃しています。ここからフィリピンが第二次世界大戦の戦闘を経験していくんですが、なぜ日本が最初にバギオを攻撃したのか。バギオにはキャンプ・ジョンヘイという米軍基地がありましたが、軍事基地というより軍隊の保養地みたいなものですから、軍事的な意味があったというよりも、鉱物開発の拠点としてのバギオをたたくのが目的で、日本の狙いは銅鉱山にあったのだろうと思います。実際、占領したら真っ先に三井鉱山がレパントに入ってきました【阿川注:マンカヤン鉱山】。
戦後、米国がフィリピンの独立を、多くの経済協定、軍事協定と引き換えにしぶしぶ認めましたが、その協定の中に、資源の採掘権が含まれていました。木材の伐採権なんかも。第三共和国は先住民にそういう負担を負わせて成立したわけで、根本的な不平等、不公正がありました。最初のうち、先住民はあまりそのことに気づかなかったのですが、フィリピン独立後に徐々に暮らしが困窮していって、米国時代にあった社会福祉はすべて有料となり、病院も教育も金(現金)が必要になり住民への負担が増していくにつれて、なぜ自分たちだけがこんなに不平等な搾取を受けるのか、疑問というか不満が出はじめます。
平地の人たちの利益が優先され、先住民は存在しないかのような扱いを受けました。Indigenousという言葉は、植物などに使われましたが、人間には使われませんでした。私たちはPagans, Savages, Nativesなどと呼ばれました。
阿川:イゴロット(Igorot)という呼び方は?
リスティーノ:イゴロットは、山の人、というような意味でスペイン時代の前から使われていた蔑称で、これも一般的に使われていました。今は私たち自身がこの呼称を自分から名乗ってその意味を変えてきていますが。
阿川:どこまで来ましたっけ…60年代くらいの話をしていましたね。そのあと、マルコス時代に入りますね。
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| マルコス、戒厳令を発す |
リスティーノ:そうですね。1972年にフィリピンは戒厳しました。この時期、フィリピンは経済成長時代に入り、電力供給のため山の水力発電も盛んになって、ダムが次々に建設されていきました。先住民の集落が立ち退かされ、水没していきました。IMF、世界銀行が入ってきて、いわゆるグローバリズムの影響をもろにかぶった時期です。山の人の抵抗運動が始まるのは、この辺からです。
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| 山に入ってきた武装集団 |
この時期にマニラ都市部を中心にマルクス主義が学生たちの間で盛んになって、その学生たちがコルディエーラを含めた農村地帯、山岳地帯に行って貧しい人々に立ち上がるように説得していった。貧しい人たちほど、このイデオロギーに染まるのが早かったと思います。IMF、世界銀行、グローバル企業の傀儡となって山を搾取するフィリピン政府に対抗できるのは、マルクス主義者だけで、貧しい人たちはマルクス主義の側にしか立てない、という感じだったと思います。第三の道が見えず、この対立構図しか見えない時代だったと思います。
マルクス主義者たち=左翼は政府から見れば反逆者、反乱者ですから、彼らも彼らの活動も非合法化されます。見つかれば捕まって、戒厳下ですから拷問され処刑される可能性が高い。自然とマルクス主義者たちは武装して潜伏し、政府に対抗することになります。山に入ってきた人たちも、武装してやってきて、貧しい人たちに武装抵抗を呼びかけました。
山の人たちの抵抗のメルクマークとなったのがチコ川ダム計画【阿川注:Chico
River Dam Project】でした。1974年、カリンガに政府の役人がやってきてダムを作る計画を開示しました。いきなり、とんでもないことで、これに対する抵抗運動が始まっていくわけですが、運動を最初に組織したのはカトリック教会でした。
阿川:それまでも教会は先住民の側に立って活動してきていたんですか。
リスティーノ:教会が社会正義のために政府と対抗するという姿勢を示したのは、70年代からだと思います。バチカンの態度が変わり【阿川注:1950年代からラテン・アメリカ聖公会が始めた「解放の神学」―こう名付けられたのは1971年と言われるが―運動が、62年~65年の第二バチカン公会議で市民権を得て―その後、バチカンは腰が引けるのだが―フィリピンにも広がった。フィリピンでは「闘争の神学:Theology of Struggle」とも称された。】、それがコルディエーラに波及してきたのではないでしょうか。教会は、ダム建設への反対運動を、これまでは団結することのなかった複数のトライブの結束へと作り上げていきました。
阿川:そのときマルクス主義者たちは?
リスティーノ:そう、そこが問題だったんです。教会は武装闘争を支持していませんから、抵抗の方法も限られています。マラカニアンで交渉して合意に達したとしても、政府側はそんな合意を守らない。平和的な方法には当然ですが限界が出てきます。それでも教会とともに闘おうという人たちと、左翼の武装闘争に接近していく人たちとが出てきます。政府は軍隊を投入して無理やりにダム建設を進めてきますから、これに抵抗しようとする人たちはそれこそ使えるものは何でも使い、できることはすべてやるしかなかった。神父の中にも武器を取って戦おうという人たちが出てきました。地方警察の警察官の中にも、地元民の側に立って闘う人たちが出てきます。
左翼にとっては、これはイデオロギーの闘いで政府を打倒するまで終わらない闘い、でも、カリンガの人たちにとっては自分たちの土地を守る闘い。本来は違う目的をもった人たちが、政府に対する武装闘争という戦略面だけで手を結んだ状態は、やはり何か「ねじれた」状態だと思います。
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| Macli-ing Dulag 彼が暗殺された日は、今でも記念日として祝われる |
阿川:そうすると、IMF、世界銀行、そしてフィリピン政府に対して闘いを挑んで勝利したわけだけれど、この勝利は誰の功績ということになるのか、複雑な感じですね。左翼は自分たちが勝利したと思ったのでしょうし、教会もまた住民との共闘関係に手ごたえを感じたでしょうし…。でも一番大事なのは、コルディエーラ住民が連帯の意識を持ったことでしょうか。
リスティーノ:カリンガでは、自分たちが土地を守ったことで、ある種の連帯への手ごたえをもったと思います。でも、カリンガの闘いが、コルディエーラ全体に連帯意識をもたらしたかと言えば、そうではないかもしれません。それよりも、この事件は、政府に対する決定的な不信感を醸造して、政府には抵抗するしかない、抵抗するには武装するしかないという共通認識を作り出したと思います。
コルディエーラでの先住民と左翼の蜜月状態―武装闘争時代は、1986年【阿川注:戒厳解除】まで続きました。私の家族も、逃亡中の反乱軍をかくまいました―銃をもった人たちが私の家にも居候して、私は彼らと一緒に育ったわけです。それが日常だった。政府には抵抗するしかない、抵抗するには武装するしかない、こういう結びつきを頭から追い出すのはむずかしいのです。
阿川:でもマルコスは追われ、戒厳が解除になり、「民主的」なアキノ政権が誕生したわけだから、話は変わっていきますよね。
リスティーノ:マルコスがいなくなった後、世界的にも先住民の権利というのが認められていきましたから、新しい時代に入ったことは確かです。コルディエーラも行政区として認められました。さて、それで、自分たちの土地、資源をどう使うかということに関して自分たちで決定できるようになったかと言うと、そうではありませんでした。自己決定を行い、土地と資源を自分たちのために使う、そのためには自治が必要ですが、政府は行政区から自治区になるには①住民投票と、②武装解除が必要だと要求してきました。
阿川:コルディエーラ行政区【1987年】ができるにあたって、コルディエーラ人民解放軍【CPLA】と当時のフィリピン政府の間で和平合意【データ山和平合意Mount Data
Peace Accord、1986】がされていますよね。そのときには、武装解除は要求されていないのに、自治区になりたいと言ったら、それを条件に課されたわけですね。
リスティーノ:教会はもちろん武装解除に賛成していますが、左翼勢力は絶対に首を縦に振りません。政府は嘘をつく、信用できない、これまでも自分たちの土地を守るために武器が必要だった、武器を手放したらどう戦えるというのだ、というわけです。
住民投票は今まで二回行いました【阿川注:1990年と1997年】が、自治賛成派は負けました。台湾も同じかと思いますが、自治というのは賭けで、もし失敗すれば経済的な自殺行為です。フィリピンという国家の中にいて、ある程度の自由を得ながらも、経済的に国家とつながっているほうが安定していて安心だ、というわけです。多くの住民はコルディエーラの歴史を知らず、祖先が土地を守るために血を流してきたことも知らず、どうでもいいという態度をとることが多い。それが問題だと思います。
阿川:1987年に憲法が変わって、先住民運動には大きな影響があったと思いますが、具体的にはどうでしょうか。
リスティーノ:新憲法下に確認された四つの原則に沿って、1997年に原住民基本法が作られました。四つの原則というのは、①祖先の土地(ancestors’ domain)に対する権利、②社会正義(先住民の慣習法など)、③自己決定権(free prior informed consentに基づく)、④文化保持の権利、です。先住民族に関する国家委員会【National Commission on Indigenous Peoples】がこれら四つの原則が守られるよう監視する役目を負うとされました。
ここから、先住民族権利闘争は、法的闘争、法廷闘争化していきました。というのは、既存の法律の中に、原住民基本法と矛盾するものがあり、それらを無効化あるいは改定せずに先住民族の権利を守ることができないからです。
阿川:例えば既存のどんな法律が対象になりますか。
リスティーノ:マルコス時代に作られた「18度以上の傾斜地は政府のもの」という変な法律や、鉱山会社を守る法律など、基本法の精神に矛盾する法律が今でもたくさん生きていますよ。
阿川:どこかで聞いたような話ですね。台湾にも同じ状況があります。現在、先住民族の権利闘争は、過去に比べて団結というか連帯が強まっていると感じますか。
リスティーノ:国連が「先住民族の権利に関する国際連合宣言宣言」を出した、あのときの委員長はコルディエーラ出身の人ですよ。マウンテン・プロビンスのカンカナイの人。それなのに、自分たちの本拠地で、住民の意見をまとめて政府と対抗することができないのは本当に不思議です。今は運動がばらばらになっている【fragmented】と思います。
今、運動は、何か大きく三つに分かれてしまっているように思います。武装左翼はもう遺物なので問題にしたくありませんが、思想的な左翼は完全な自治を要求しています。どのような政権とも基本的には協力しない、という原則を持っています。そうすると、政府から見ると思想的な左翼は敵対勢力ですね。法を犯さない限り、表立って迫害はできないですが、なんだかんだと理由をつけて迫害する対象です。国連の先住民委員会に出てる人たちの中にさえ、フィリピン政府からは左翼扱いされている人たちがいます。彼らは、うっかりフィリピンに戻れませんよ。イデオロギー先行型の左翼、私はハードコアと呼んでいるのですが、これが一つの勢力です。
二つ目の勢力は、妥協派。社会正義を追求しつつ、政府と妥協して、協力していこうという勢力です。国際的なNGOなどが、この典型です。社会正義を作り出していくためには、目の前の人権問題を一つ一つ何とかしていく必要があり、そのためには政治権力や大企業の金や、それらが支配する権力構造、メディア力、動員力などを利用していく。利用し、利用される関係の中で、実は現存の権力構造を強化して、先住民族の権利を最終的には縮小、はく奪していく方向に働いているかもしれないけれど、あまり気にしない。他に現実的な方法があるなら教えてくれ、と開き直るのが妥協派だと思います。
最後に、力は大きくありませんが、独立派―政府からも、左翼思想からも独立した人たちというのがいると思います。私もそうした人たちの一人でありたいと思っていますが、左翼ハードコアのような資金源を持たず、妥協派のように政府や企業からの援助も期待できない状態で、苦労しています。
阿川:リスティーノさんたちが出されたコルディエーラにおける殺虫剤問題に関する調査、あの仕事は行政からの援助があったのだと思っていましたが、そうじゃないんですか。
リスティーノ:少し複雑なので説明させてください。先住民族権利運動のメインストリームの人たちはほとんど興味を示してくれないのですが、コルディエーラの農業地帯で致死性の成分を含んだ殺虫剤が、超国家的企業によって売り込まれ、使われています。私の兄は、この殺虫剤で命を落としました。私たちはベンゲット州立大学の友人と一緒に3年間、この問題を調査し、現地へ行ってデータを集め、報告書を作り、こうした殺虫剤を禁止する条例の提案などを行いました。はい、最初は地方行政からの委託を取り付け、資金援助ももらいました。が、報告書が形になるにしたがって、殺虫剤会社と癒着した(金が流れていたのだと思います)町長や役人によって、委託が取り消され、援助も切られました。その時点で、一緒にやってきた州立大学の仲間は手を引きました。行政や政府とつながるパイプを切られると、調査結果を地元コミュニティと共有して、実際に農業を変えていくという作業は非常に困難なものになります。禁止条例の制定などを呼びかけるにも、パイプは必要です。現実に農民が被害にあって、今でも死んでいく人がいるのに、何もできないという感じで、今、とても苦しいです。
でも、道はあるはずだと思います。コミュニティを回って、殺虫剤の害について知ってもらうことも必要だし、今、農業を学んでいる学生たちにも知ってもらわなくてはならないし、私たちの仕事はそういう意味での教育にあるのかもしれません。
阿川:リスティーノさんたちは、コルディエーラの歴史について調べて、それを教育の資源としてというか、教材にして学校で使ってもらうという仕事を以前もしてましたよね。ただ、教育現場にそういう教材を届けたり、使ってもらったり、行って話をしようとすると、やはり地方行政との協力関係が必要ですよね。
リスティーノ:そのほうが早いですよ、確かに。独立派は、行政との、あるいは政府との協力を拒否してはいません。協力できるところはするんです。利用し、利用される関係ではないことが重要だと思います。
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以上、ベティ・リスティーノ氏に聞いたことを、できるだけ彼女の言葉に沿って書いたつもりだが、話は英語で行われ、すぐ下の大通りを車が行き来する騒音の中での聞き取りだったので、細部を阿川の勝手な解釈で埋めてしまった部分もある。リスティーノ氏の本意と食い違う部分があるかもしれない。ここに書かれた文章の責任はリスティーノ氏にではなく、阿川にある。あらかじめお断りして、リスティーノ氏にはお詫びしておく。(阿川)





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