ベティー・リスティーノ氏に聞くコルディエーラ先住民族運動の現在①

左:リスティーノ氏、右阿川
  2018714日、ラ・トリニダード町、ベンゲット州立大学から通りを挟んだカフェで、先住民族カンカナイの出身であるベティー・リスティーノ氏から彼女が子供の時から見聞きし、大人になってからずっと取り組んできたコルディエーラ地域における先住民族の権利運動、人権運動について話を聞いた。

リスティーノ氏は2006年にベンゲットで氏が中心となって立ち上げたNPO、リサーチメイトの代表。最近三年間は、ベンゲットの野菜栽培にスイス、シンジェンタ社が売り込んでいる殺虫・除草剤「グラモキソン」(致死性のパラコートを含有していて、使用する農民にも被害が出ている)の害について調査し、これを排除すべく行政に働きかけを行うなど精力的に先住民コミュニティの福利のために活動してきた。
下記のインタビューで氏自身が語っているように、この調査啓蒙活動は、シンジェンタ社と癒着した地方行政有力者の圧力によって政府系の援助を絶たれ、政策に影響を与える仕事ができなくなった。これをきっかけに、リサーチメイトはここ数か月、事実上の活動停止に追い込まれた。氏に、これまでの経緯と、今後の見通しを聞くことが、今回のインタビューの目的だ。

阿川:今日はお忙しいところありがとうございます。多くの読者はフィリピンの、特に先住民の歴史について、あまり背景知識を持っていないと思いますので、そのあたりからまず、教えてください。

コルディエーラ行政区
リスティーノ:今いる場所はコルディエーラ行政区というんですが、コルディエーラという単位ができたのはエドサ革命【阿川注:1986年のピープル・パワー革命、マルコス大統領を引き下ろし戒厳を終わらせた】後に戒厳が終わり、憲法が改正された後です。新しい憲法になって、先住民という概念が初めて認識されました。

阿川:それまでは、先住民はどのように扱われていたんですか。

リスティーノ:スペインが支配した時代、スペイン人はこの場所に金が出ることを知って、金を目的にここにやってきました。レパント金鉱、ベンゲット金鉱などですね。金の採掘は、それぞれの土地を支配するクラン、あるいはトライブのチーフが認めなければできなかったのですが、スペイン人に採掘をさせるクランやトライブがあって、自分たちも掘るけれどスペイン人にも掘らせてやる、そういう状態だったんです。先住民の人たちにとって、金はスペイン人にとっての価値とは違いますから血眼になって守るということもない。
 スペインも、このような関係に満足して―馬鹿な先住民をだまして金を取り放題だったと認識していたのかもしれませんが―それ以上、例えば軍を送り込んで先住民と戦うようなことを望まなかった。
当時の平地のフィリピン人たちは、山に住む「首狩り」の習慣を持つ先住民と自分たちは違うのだ、あいつら野蛮人は自分たちの一部ではない、そういう感じですね。スペイン人たちも、先住民の(特にトライブの)戦闘力を恐れていたと思います。
 革命【阿川注:スペインからの独立戦争】後、平地にはフィリピン人というナショナリズムが生まれましたが、その概念の中にコルディエーラの先住民はもちろん入っていなかったし、先住民の側も革命についても第一共和国の成立についても何の知識も、興味もなかったと思います。

阿川:お話の中のクランとトライブというのは、どう違うのですか。

リスティーノ:クランClanというのは、まあ、血縁で作られた、家族を中心としたまとまりというか集団です。トライブTribeは「戦士の集団」で、戦士とその家族が集まって集団を運営する。チーフを選出して、チーフが公正、平等にことを行わなければ解任してチーフを選びなおす、という感じで、自分たちの法がはっきりあります。クランが貧富や権力の差をもった集団なのに比べると、トライブのほうが民主的な集団かもしれませんが、こちらは戦闘的ですね。自分たちの領土を守ったり、ときには広げるために武器をとって戦う。
ベンゲットはクランが支配した地域で、イバロイやカンカナイのクランは複数ありますが、有力なクランが他のクランを支配下において、自分たちの言語と文化を主流にしていきます。そうすると、例えばスペイン人は、有力なクランに働きかけて(賄賂を贈ったりして)仲良くなれば、そのクランの力でベンゲットでの金の採掘が容易になります。でも、トライブが力を持っている地域では、話はそう簡単にいきません。チーフを抱き込むことができにくい。抱き込まれたチーフが不公正、不平等なことをしたら、チーフの首が飛びます。一つのトライブが「抱き込まれた」としても、ほかのトライブが抵抗します。それも力による抵抗ですから、面倒くさいことになります。

阿川: そうすると、フィリピンの先住民コミュニティはこの二つのタイプに分かれるわけですね。

ミンダナオ
リスティーノ:基本的にはそう言えます。もちろんミンダナオのモスリムたちは古くからサルタン制Sultanateをもっていて、これはクランでもトライブでもない、もう一つの社会構造です。
 スペインから見るとミンダナオのサルタン制も、コルディエーラも、フィリピン人という概念には入っていなかったんだと思います。両方ともスペインからの税の取り立てにあっていませんから。スペイン時代からこうした分断ははっきりしていました。その意味では私たちはスペインには「隷属」されられてはいなかったということです。

阿川:それが、米国がやってきて大きく変わった?

リスティーノ:米国は、1900年にスペイン時代とは比較にならないような近代的な武器と機械を持ってやってきました。道路を作り(ケノンロード)、イトゴンの金鉱を管理するためにバギオという大きな町を作りました。コミュニティをコントロールするために有力なクランを抱き込みました。ブントックBuntocでは、しかし、米国はてこずりました。
 ブントックはトライブなので、米国と戦闘状態に入りました。米国は、北米で先住民のトライブとの交渉というか戦いには、ある程度の経験がありましたから、てこずりはしても最後にはブントックも支配下に入れました。
 米国は学校を作り、スペインがしなかったキリスト教の布教をし、主だった人たちを米国本土に送って教育し、文化そのものをキリスト教化、米国化していきます。私の祖父も完璧な英語を話しました。あなたたちはフィリピンの平地人に差別されていじめられてきただろうけれど、平地からあなたたちを守ってあげられるのはわれわれ米国人だけですよ、と洗脳していった。
 当時の米国人の日記とか残ってるのを見ると、コルディエーラは彼らにとって第二のカリフォルニアだったことが分かります。

阿川:その辺の話は2011年にベティさんから聞いて、Eaphetのニューズレターに紹介したことがあります。「アメリカは私たちの心を飼いならした」というタイトルで。そこで私、こう書いてます。「バランガイ・キャプテンになったり、役職を与えられるとなぜかカウボーイ・ハットに皮のチョッキ、ピカピカのカウボーイ・ブーツにいそいそと身を包むイゴロットの男達(左写真)には、フィリピンのほかの地域の人々とは違ったアメリカ合衆国との関係を誇示する雰囲気さえある。」と。
これは、台湾の山で、日本人がしたことと似ています。台湾の漢人たちはすでに中国文化に染まっていてうまく日本人化しにくい。山の人たちは子供のような白紙状態なので、日本人化しやすい、と。

リスティーノ:そうなんですね。日本と言えば、バギオもトリニダードも中国移民もいましたが、日本移民の人口がけっこうあったんです。さっきのケノン・ロードを作ったのも主に日本人労働者でしたし。こうした移民がこの地の農業に貢献したと言われています。米国人が好みそうな野菜の栽培は日本人から学んだそうです。

(阿川)②に続く

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