シヤツ・ナブ牧師、聖書タクダヤ語版翻訳終えて帰る

8月17日、シヤツ・ナブ(Siyac Nabu)牧師が息を引き取った。92歳だった。伴侶のロボさんが去年の9月に亡くなって1年もたたなかった。
 「いつも、あれと向かい合って食事していたから、いないと…」、ロボさんが先に逝ってしまったとき、そう言っていた。
 「あれは先に帰ったけれど、私はこれ(聖書のタクダヤ語訳)をやり終えるまでは帰れないんだ。」最後に会ったのは去年の10月27日、そのとき小さな机の上に置かれた聖書の日本語版と原稿用紙を、動く方の手で指してそう言った。そのときの様子から《ああ、もうこの人の邪魔をしてはいけない》と思った。
 霧社事件についてはもう何も言いたくない、というシヤツさんに頼み込んで「セデック民族」を書いてもらった。彼は彼なりに考え抜いて書いてくれたわけだから、誰かがやらせたという言い方は不遜だろうけれど、それでもあの仕事で、彼が本来すべきだと彼自身が考えていた仕事を遅らせてしまった。

高峰の自宅でロボさんとシヤツ牧師(2012年4月)
以来、牧師はどうしているだろう、家の横を通るたびに寄って消息を聞きたいという気持ちを抑え込んできた。埔里の息子さんのところで養生している、という話も聞いた。12月8日、ペイト牧師から「あれ、知らなかったの。てっきり葬式にも来ていたとばかり思ってた。ごめんね。」とシヤツ牧師の死を教えられた。

 シヤツ牧師は彼の言葉通り、タクダヤ語訳を完成させて、帰っていったそうだ。

 でも、トーダ語訳がまだできていないので、まだ出版はできていない。トーダ語は、この仕事でシヤツさんのパートナーでもあった玉山神学院の張牧師が今がんばってやっている。山では以前としてトルク語聖書だけが使われている。ペイト牧師の話によると、3言語に華語を入れた4言語版を作るのは無理だとのこと。厚くなりすぎるからだ。そうすると、3言語それぞれに華語を付けた版を作ることになるのかもしれない。いずれにせよ、シヤツ牧師の最後にして最大の仕事が日の目を見るのはもう少し先になる。牧師、おつかれさまでした。【古川ちかし】

付記(2016年記の「セデック民族」出版に関する記事から)
シヤツ・ナブさんは、セエデク・タグダヤのカッツク社(社=部落)に生まれましたが、幼少のとき霧社事件が起きました。カッツク社の人たちは蜂起に(部落としては)参加しませんでしたが、中には個人で参加した人もいたようです。事件後に、カッツク社は隣のタカナン社とともに濁水渓(川)まで降ろされました。部落ごと、日本警察の管理しやすい場所に移動させられたわけです。ところが、川べりはマラリヤの蚊が多く、部落から死者がたくさん出たため、川の反対側のちょっと高いところに位置していたセデック・タグダヤ最大の部落で蜂起に参加しなかったパーラン社の一部に組み込まれました。そこにしばらくいた後、今度は濁水渓にダムを建設するのに伴って、パーラン社全体が、もっと低い場所(埔里から山ひとつ越えたところ)に強制的に移動させられました。中原部落という部落です。1939年ころのことです。
セデック民族の原稿ができたから取りに来て、
と言われて高峰に行ったときのロボさんと
シヤツさん【2012年8月】
 父アブさんは、一家が(部落が)埔里に移動された後、人のいなくなったパーラン社に杉の木を植えるという苦役に駆り出され、何度も杉の苗木を背負って埔里と霧社とを往復させられたといいます。(パーラン社があった場所は「電源保護区」に指定され、人家を一掃して杉の林にした。)母親のラベさんはどちらかといえば日本贔屓の人だったようで、シヤツさんの兄のロシが教育所修了後に尋常小学校に入学が許可され、日本警察に就職したときには大喜びだったそうです。ロシが警察官として近隣の部落の派出所に勤め、教育所の教師も勤めるようになると鼻高々だったとも聞きます。あるとき、日本警察に対して反乱を起こそうとしていた者をラベがロシに密告し、ロシが下手人を捕らえて褒美をもらったこともあったそうです。アブさんは、そんな妻とは意見が合わなかった。日本警察が、ロシの弟だということでシヤツも上の学校に上げないかと言って来たとき、アブさんは言下にこれを断った。息子を二人日本に取られてしまうのは、ぜったいにいやだったようです。
 そんなわけでシヤツさんは、父アブの農地を継いでよく働きました。兄のロシのように学問を身につけ、日本人と肩を並べて仕事をするのを羨ましがったこともあったといいます。日本が去って、ロシが議員になったとき、シヤツさんも中原部落の農会の代表となります。隣の部落(川中島)のロボ・ピホさんと結婚しました。当時、台湾の山の中にキリスト教が入ってきて、ロボさんは真っ先に入信した。シヤツさんは、しかし、部落代表の仕事もあって、政治的なかけひき、繰り返される飲み会、つきあいに追われ、そんな妻の聖書のページをやぶいてタバコを巻くというような「蛮行」を繰り返していたといいます。
 シヤツさんが教会に顔を出すようになったのは、代表の活動で体を壊したときでした。ロボさんに連れられるようにして教会に顔を出すようになった。その後川中島の教会で、献身的に布教するアメリカ人の牧師に出会い、入信したのだそうです。それから伝道師になり、牧師になる勉強を始め、1970年代に日本(鶴川農村伝道神学校)に留学、台湾に戻って牧師職に就いた。
 シヤツさんが牧師職に就いてから、折に触れて気になることが起こりました。それは、同胞でありながら、部落の間に、普段は見えないけれど何かあると湧き上がってくる確執のようなものでした。シヤツ牧師は書いています。

 私たち三つの系をもつセデックが一致すべきなのに互いにあらそい、仲を悪くしているのを知った日本は、この弱点を利用して私たち民族に殺し合いをさせ、仇という憎しみを心の中に植え付けた。このことは忘れられない罪となって、私たちはこの罪を背負い続けたようだ。
 ある一人の娘が私に「牧師さん、私が霧社事件記念活動に参加して家に帰ると、母に叱られたんです。なぜそんなものに参加するのか、と」と言うのです。昔のことなのに今でもまだ恨みがあるのかと、私は驚いた。
 前の陳総統が霧社に上がられたとき一人のトウダ系の青年がみんなの前で陳総統に「霧社事件記念碑に行くな、彼らは私たちの敵だ」と言った。これを聞いたとき、私は心の中で悲しい思いをした。(「セエデク民族」本文より)

 和解のためには何が必要なのか、シヤツ牧師はいろいろやってみた。それは試行錯誤の連続だった。和解はもう何度もやってきた、いまさら必要ない…そういう声が強かった。パーラン社の人間が何を言うか、味方蕃のくせに。そんな声も聞こえてきた。「私(シヤツ)が何か言うと怒る人がいるから」と、発言を控えようとしたこともありました。本書は、そんなシヤツ牧師の最後の試行錯誤のひとつなのだろうと思います。私にはどうにもできなかったかもしれないけれど、歴史は残しておかなければいけない…そんな思いなのかもしれないと思います。(古川ちかし)




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