アメリカ合衆国、法を曲げて日本のプルトニウム蓄積を援助④
2012年4月9日 National Security News Service(NSNS)の記事、United States Circumvented Laws to Help Japan Accumulate Tons of Plutoniumを、今、金曜日の「英語で読むかい」で読んでいます。ネットにも、この記事の全訳はないので、毎回読んだところまで(連載で)みんなで考えた訳を掲載していきます。今回はその第四回です。原文はこちら。
1950年代はじめ、アメリカ合衆国は東京に対して原子力ビジネスに取り組むよう積極的に圧力をかけた。その破壊的なパワーを目の当たりにしたアイゼンハワー大統領は、原子力を厳しい統制下におかねばならないと考えていた。しかし同時に、アメリカ合衆国だけが原子力を独占することも不可能だと知っていた。そこで考え出したのが原子力の平和利用という戦略だった。アイゼンハワーは資源不足の日本やインドなどに、技術・経済・友好支援として原子炉を与えた。経済とインフラの復興に自前の資源を欠いた日本は、慢性的なエネルギー欠落経済への解決策として原子力に飛びついた。
アメリカ合衆国の原子力平和利用計画の助けを得て、日本は本格的にその原子力産業を作り出していった。大量の科学者たちをアメリカ合衆国に送り、原子力開発のための訓練を受けさせた。戦後、国際社会での足場、そして主権とパワーを回復しようと必死だった日本はそのもてるわずかな資金を原子力研究施設と原子炉につぎ込んだ。戦時中の蓄積があったので日本は原子力産業を自力でゼロから立ち上げていくこともできたが、原子力平和利用計画の助けを得て西側から原子炉を輸入したほうが安価だった。
原子力平和利用計画は、アメリカ合衆国からの原発輸出だけでなく、イギリスとカナダからの輸出も支援した。最初はイギリスだった。イギリスは日本にマグノックス炉を売却した。【British Nuclear Fuels Limited(BNFL)のMagnox炉。日本初の商業炉として66年8月に運転を開始し、98年3月に運転を終了した日本原子力発電(株)の東海発電所】GE(General Electric)社とWH(ウェスティングハウス)社は、日本の原子力産業の残りの部分を急いで確保し、原子炉設計と部品などを法外な値段で日本に売りつけた。日本の原子力産業は、原子力平和利用計画の他の被支援国にとってのモデルとなった。この時期に優秀な若き科学者たちは成熟のときを迎え、みんなが原子力開発に燃えていた。
産業が活性化すると、日本はアメリカ合衆国から離れて独自に原子力研究を再開した。アメリカ合衆国に促されて1956年に日本の官僚たちは、完全な核燃料サイクルを作り出す計画を立てた。当時、こうした計画は、1939年にアインシュタインがルーズベルトに【核爆弾製造の必要性を訴えた】手紙を出したときに原爆というものが理論的なものに過ぎなかったのと同様、理論的なものにすぎなかった。理論的には、通常型の原子炉で使った燃料からプルトニウムを分離することが可能で、それを新たな“増殖炉”の燃料とすることが可能と考えられた。これは、まだ誰も実現できていなかったが、実現すれば技術のブレークスルーとなると考えられた。日本、アメリカ合衆国、そしてヨーロッパの科学者たちはこうした科学の進歩の可能性に酔いしれていた。日本の中心の人々と官僚たちもまた同じようにこうしたアイデアに前向きだった。増殖炉計画はアメリカ合衆国からの輸入に頼っているウラニウムをフルに活用する道を開いてくれる。アメリカ合衆国への依存から抜け出せるだけでなく、爆弾の材料として最も強力だが入手困難なプルトニウムの膨大な蓄積をももたらしてくれる。
冷戦の隠された政策
佐藤栄作とジョンソン大統領
1964年10月、中共が初の原爆実験に成功して世界をあっと言わせた。世界中がびっくりしたが、日本ほど強い感情的反応を示した國はなかった。三ヵ月後、佐藤栄作首相はワシントンに飛び、リンドン・ジョンソン大統領と秘密裏に会見した。佐藤はジョンソンに対して、もしアメリカ合衆国が日本が核攻撃に晒されたときに日本の安全を保証しないのであれば、日本は独自に核爆弾を開発すると、最後通牒をつきつけた。ジョンソンは日本をアメリカ合衆国の「核の傘の下に入れる」ことを約束せざるを得なかった。この約束を得たために、佐藤は後に彼の“非核三原則”―所有せず、作らず、持ち込ませず―を打ち出すことが可能になった。佐藤はこの宣言によってノーベル平和賞を受けた。なんとも皮肉な話だ。日本の国民も、世界の人々も、この三原則が徹底されたことは一度もなく、佐藤が核兵器開発計画の継続を認可していたことも、まったく知らされていない。
その後、何千ものアメリカ合衆国の核兵器が日本の港と在日米軍基地を通過していった。佐藤・ジョンソン会談以前にも、日本はその領土内にアメリカ合衆国の核兵器が貯蔵されていることを公式には見ないふりをするという暗黙の同意があった。日本側ではこうしたことを文書に残さぬよう巧妙にことが進められたが、1981年に当時の日本大使だったエドウィン・ライシャワーが新聞のインタビューでこうした密約を暴露した。1960年に日本はアメリカ合衆国の戦艦が核兵器を搭載して日本の港および領海に入ることを口頭で許可した、というのだ。日本とアメリカ合衆国の高官の中に、このライシャワーの説を裏付ける発言をする人々がいる。前アメリカ大使だった下田武三もその一人だ。

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