アメリカ合衆国、法を曲げて日本のプルトニウム蓄積を援助⑤


2012年4月9日 National Security News Service(NSNS)の記事、United States Circumvented Laws to Help Japan Accumulate Tons of Plutoniumを、今、金曜日の「英語で読むかい」で読んでいます。ネットにも、この記事の全訳はないので、毎回読んだところまで(連載で)みんなで考えた訳を掲載していきます。今回はその第五回です。原文はこちら

1980年代にこの密約問題について問われた日本政府は、そのようなことはないときっぱりと否定した。条約の内容についてアメリカ合衆国と日本で理解が違うというようなことは“考えられない”と言った。その後鈴木善幸首相が外務省に事実関係の調査を命じたが、外務省はそのような密約が書かれた文書はないと答えることしかできなかった。
機密指定が解除されたアメリカ合衆国の資料が非核三原則が偽物であることを明らかにした。その資料は、アメリカ合衆国が定期的に核兵器を日本の港に持ち込んでいたのを日本政府が黙認していたことを暴露した。アメリカ合衆国の軍事計画立案者は日本の沈黙を、核兵器の日本の港への持ち込みに対する暗黙の許可だと受け取った。何十年も横浜を母港にしているアメリカ合衆国のキティホーク航空母艦は、核兵器を常備していた。
日本は核兵器を使ったシミュレーションを伴うアメリカ合衆国との合同軍事演習に参加もしていた。これらの話は、核兵器についての日本政府の対応が公表していた政策と実際に行われたこととに大きな差があることをはっきりと示している。
核不拡散条約を批准するかどうかが、1970年代初めの日本での重要な論争の一つだった。この条約は基本的に核を現状で凍結するというもので、五大国は核兵器を持ち続け、世界の残りの国は核兵器を放棄することを誓約するという主旨だ。100を超える国々がこの条約を批准した。核兵器に対する全ての可能性を残しておくという選択をした極めて例外的な地域は、インド、パキスタン、イスラエルと日本だけだった。この論争は、日本でのこの種の問題の例に漏れず、公にはされなかった。論争の内容は、しかし、アメリカ合衆国には筒抜けであり、ここでアメリカ合衆国が知りえたことが日本の核兵器への野望に対してアメリカ合衆国の考えを一新させた。
当時の防衛庁長官だった中曽根康弘は、新しい世代の原子力推進派の政治家だった。彼は、すぐに核武装することには賛成しなかったが、日本の将来の核兵器開発の権利を制限するようなことには、全て反対した。中曽根は1969年の政策文書の執筆者の一人で、その政策文書の国防の章には以下のように書かれている。「当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器を製造できる経済的、技術的な可能性は常に保持するとともに、それについて他からの干渉は一切受けないように配慮する。」http://kakujoho.net/ndata/us_jp.html
6年後、中曽根は再び核論争に巻き込まれた。このときの問題は、日本の核へ向かう能力と日本の政界での頂点に立つこと-首相の座-だった。中曽根は、表面的には核不拡散条約を支持することで、首相への道を確実なものにした。日本の協力への代価として、フォード大統領は、核兵器製造ができる材料や技術を含む日本の核開発計画への不干渉を約束した。フォードの保証を受け、日本は結局1976年に核不拡散条約を批准した。日本の核通商は衰えなかった。アメリカ合衆国は、引き続き日本の原子炉に濃縮ウランを供給し、使用済燃料をヨーロッパで再処理することを許可した。そして再処理されたプルトニウムは再び日本へ運ばれ、将来増殖炉で使うために備蓄された。

核分裂性物質拡散の防止
ジミー・カーターは1976年に大統領選挙で勝利すると、核分裂性物質の拡散を規制する積極政策を始めた。海軍潜水艦の原子炉の技術者だったカーターは、プルトニウムと濃縮ウランに秘められている巨大なパワーを誰よりも知っていた。カーターは、その力を、たとえ緊密な同盟国-日本を含む-であっても(現在持っていないなら)持たせないことを決心した。
カーターには理由があった。1976年に日本が核不拡散条約に批准したにも関わらず、次の年にCIAの為に行われたある研究が、日本を、1980年までに核兵器を作る可能性がある三つの国のうちの一つと名指しした。日本人の核兵器に対する歴史的な嫌悪感だけが日本の核配備へのマイナス要因であり、その他の全てのファクターは日本の核配備を支持するものだった。この時までにCIA-とその隠れた姉妹組織であるNSA-は日本の中枢の見解を理解していた。
カーターは、プルトニウムが世界の安定性に与える信じられないような破壊的な影響を知っていた。プルトニウムは獲得するのが最も難しい核爆弾の原料である。発展途上国-そしていくつかのテロリストグループ-でさえ、プルトニウムや濃縮ウランを核爆弾にする技術を持っている。しかし、プルトニウム精製やウラン濃縮は非常に難しくコストのかかる仕事だ。カーターは、プルトニウムとウランの拡散を制限することで核兵器の拡散をコントロールできることを知っていた。カーターはプルトニウムの拡散防止を彼の核不拡散政策の柱に据えた。
日本はカーターがその職に就くなり1978年核不拡散法案を議会に提出したことに衝撃を受けた。核不拡散法はウランとプルトニウムの輸送の全てに議会の承認を必要とし、その結果、核機微技術を日本から締め出すことになった。カーターは、日本が核兵器製造に使える核の技術や原料を輸送しないように決めた。この決定は、アメリカの核産業にも全く不評だった。アメリカの核科学者たちは、核エネルギーを知り理解している科学者の一員であるカーターに、とても期待していたのだ。カーターの取り組みはアメリカの使用済核燃料再処理計画を終わらせた。カーターは、再処理を停止した。なぜなら、彼は韓国或いは台湾がプルトニウムを備蓄することから生じる結果を危惧していたからだ。カーターは、いずれかの國のプルトニウムの備蓄が、日本と中国、そして韓国あるいは台湾を巻き込んだアジアの軍拡競争を引き起こすと信じていた。

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