アメリカ合衆国、法を曲げて日本のプルトニウム蓄積を援助⑦


201249日 National Security News ServiceNSNS)の記事、United States Circumvented Laws to Help Japan Accumulate Tons of Plutoniumを、今、金曜日の「英語で読むかい」で読んでいます。ネットにも、この記事の全訳はないので、毎回読んだところまで(連載で)みんなで考えた訳を掲載していきます。今回はその第七回です。原文はこちら


その間に、一つの国がまだ頑なに増殖炉技術を追求し続けていた。日本だ。1987年、日本のバブル経済の資源は無限に見えた。もしどこかの国が増殖炉の実用化に成功するとしたら、それは日本だった。しかし、日本の科学者たちが成功するとしたら、彼らはアメリカがやめたところからスタートしなければならなかった。
次に何が起きたかを理解するためには、アメリカ合衆国の政治機構を理解する必要がある。政権は4年か8年ごとに交代し、議会も、特に下院はメンバーがころころ変わるが、その一方で官僚は一枚岩的な連続性を持っている。官僚機構では、キャリア組は自分たちが実現したいプロジェクトを抱えて、それが実現できる政権に代わるのをじっと待っているのだ。議会が増殖炉計画を中止する前に、レーガンは計画の将来をケネディに託した。
ケネディは、ワシントン内部者のハリウッド映画で言えばキャスティング・ディレクターのようだった―彼の長年の敵対者であるDamon Moglenは言う。「かれはいかにも意地悪そうでけばけばしい外観の男で、ほとんどの時間を煙まみれの裏の部屋で過ごしているような人間に見えた。かれの態度は、いかにも影響力がある感じを醸し出し、彼がタマニーホールから出てくるのを見かけたとしても驚くことではない。」【タマニーホールは、ニューヨークに実在した民主党とその支持者のクラブであり、集票マシンであった。集票はマフィア・ギャングが請け負ったのである。もちろんただでは請け負わない。見返りと引き換えだ。タマニーホールという言葉が、腐敗の象徴として今日でも使われる】ケネディの友人はそれよりは好意的に語る。NRCでのケネディの同僚であるBen Ruscheはケネディの政治的な本能を褒めた。「彼は、たぶん業界の多くの人よりも国内外の政治にたけていた。」友人も敵も同じように、ケネディが彼の行く手を邪魔する下級官僚を踏みつけにしたことは認めている。ケネディは、アメリカの増殖炉計画を、その重要な部分を日本に委譲することで、救済する計画を指揮するにはうってつけの人間だった。
この計画にはワシントンの複雑な官僚機構に対する熟練した小細工が必要だった。これぐらいの規模の技術移転には、たくさんの組織の数百もの官僚の許可が必要だった。しかしまさにその官僚機構の大きさと複雑さゆえに、計画に心から賛同する少数の幹部の助けを利用して賢い内部者が上手にかじ取りしていけば乗り切ることは可能だった。これまで8年にわたる日本との増殖炉共同開発から、情熱と忠誠心を持った若い科学者と官僚たちが育っていた。ケネディは1985年に議会に共産主義中国に原子炉を売ることを許可させた思いもかけなかった成功の酔いから覚めていなかった。

両サイドに供与―中国と日本との核取引

1984年、ウェスティングハウス社は100億ドル以上の原子炉の取引を中国と結んだ。この取引はアメリカの核産業にとっては思ってもみなかった収穫で、アメリカが世界の核商業を支配することへ向けてのケネディの努力の土台となるだろうものだった。唯一の問題は、核の秘密を誰彼構わず売ってしまうことについては最悪の記録を中国が持っていたことだった。
当時民主党の院内副総務だったAlan Cranstonが、レーガン政権下でケネディの指揮のもとに「議会に知れたらまずい問題を、政権上層部だけで独占し、組織的に情報を隠ぺいした」と上院で激しく糾弾した。そのときには、すでに中国が核技術を五つの核の無法者―パキスタン、イラン、南アフリカ、ブラジル、アルゼンチン―に売り渡したことが知られていた。1984年までにCranstonとアメリカ政府のほとんどの人間が、中国が最先端の核兵器設計をパキスタンに渡したことを知っていた。北京は南アフリカの核爆弾に使われるであろう濃縮ウランも売り渡していた。中国はアルゼンチンに、爆弾計画に使用する重水を売り、その一方ではアルゼンチンと敵対するブラジルに核原料を売り、イランとも核関連の合意交渉をしていた。中国の核拡散の痕跡はこれ以上悪くなりようがないほどひどいものだった。しかし、鉄壁の拡散防止策を交渉する代わりに、ケネディは双方にとってとても曖昧で好きなように解釈できる合意だけを持って北京から帰ってきた。中国は核不拡散の誓約にサインすることも、燃料再処理をして核兵器に使うプルトニウムを作ることを防ぐ権利をアメリカに持たせることも、ともに拒否した。
ケネディは1985年の6月に、アメリカ側の核不拡散交渉の代表団を率いて再び北京へ行った。彼は新しい合意を持って帰ってきたが、それは最初の(あいまいな)合意とほとんど同じものだった。しかし、100億ドル規模の計画はワシントンではなかなか死なず、【原子炉売却交渉がとん挫した場合】中国側は間近に迫っていた鄧小平首相のワシントン訪問を取り消すという脅しが、ケネディが必要としていた突破口を開いた。アメリカ合衆国政府は、中国の核の脅威を防ぐ最もよい方法は、中国に対する核の主要な提供者になることだという議論を展開し、ウェスティングハウス社は下請け契約書を公開し、結果として政治家たちもこの契約を支持するにいたった。
中国との合意は、ケネディらを政権の強権勢力へと押し上げ、ロビー会社と日本資本のシンクタンクのメンバーとなれば巨額の報酬が期待できたにも関わらず、ケネディら中心メンバーは政府に留まった。日本の増殖炉計画が軌道に乗った今、ケネディの右腕であるアメリカ国務省のFred McGoldrickと国防省の契約者Harold Bengelsdorfは、政府内の増殖炉の徒弟たちを結集しようとした。彼らの目標は、アメリカの税金で賄われた160億ドルのクリンチリバー計画を日本最大の電力会社へ、アメリカの投資の1000分の1以下の価格で移譲することだった。この計画はすでに、日本の五大会社で働く日本やアメリカのコンサルタントの大部分の人から承認を得ていた。
【五大会社という記述は、戦前の(国家総動員以前までの)体制を言っているのか?時代錯誤な記述なのか、別の意味があるのか、不明。⇒戦前の五大電力会社:東京電燈、大同電力、東邦電力、大日本電力(函館水電→帝国電力)、宇治川電気/戦後の北海道配電・東北配電・関東配電・中部配電・北陸配電・関西配電・中国配電・四国配電・九州配電(それぞれが~電力、と名称を変えて現在まで存続。→1950.11.24GHQ指令による)】
二つの障壁が彼らの前にあった。第一の障壁は、アメリカの法律と国際法でクリンチリバー計画の技術開発、特に使用済み燃料からプルトニウムを分離する再処理技術の開発は厳しく制限されていたことだ。第二の障壁は、この計画は数百もの核兵器に使用できるレベルのプルトニウムと高レベル放射性廃棄物の輸送が必要だったことだ。
1986年の初期、ケネディはほとんど毎日、軍備管理軍縮局(ACDA)の中間ポストにあるLewis Dunnと会っていた。ACDAは日本との取引が生き残るかどうかの決定に大きく関わる核拡散脅威アセスメントの査定を請け負っていた。
Dunnは彼のキャリアを核兵器拡散に反対することに捧げていた。しかし、ケネディと同じく、彼は核技術の管理の最善策は、世界の核供給をリードすることだと信じていた。彼の静かで揺るぎない方法で、Dunnは日本との合意をケネディと同じくらい強力に擁護していた。Dunnのケネディとの度重なる会合の記録は機密事項だが、ケネディのカレンダーは二人の非常に親密な協力関係を明らかにした。
Dunnは、Foggy Bottomの国務省ビルのオフィスにある半自律的な組織であるACDA【軍備管理軍縮局】で働いていた。少なくとも週三回、ほぼ一年にわたって、DunnACDA3階のオフィスからケネディのオフィスまで通っていた。彼らは数時間にわたり、議会が日本への移譲を許可するかどうかの決定に使われることになる核脅威のアセスメントについて語り合った。
Dunnが書いた報告書は、1986年半ばに各省庁を巡ったが、ペンタゴン、CIA、原子力規制委員会から直ちに疑問の声があがった。CIAは何年も、日本は核技術を保持しそれを核武装に使う意志があると警告していた。アメリカ政府内の大方の見方に反して、日本は核武装の法的権利を放棄していなかった。実際、1950年から始まった内部の議論を書いた一連の政府文書では、日本の政策計画者は核武装の選択肢を明確に保留していた。さらに言えば、1969年の日本政府の最高レベルに回っていた国内計画の資料【→http://kakujoho.net/ndata/us_jp.htmlでは、日本は核兵器開発の技術的、経済的手段を保持し、必要であれば製造すると書かれている。不吉な余談として付け加えるなら、その資料には「どんな外国からの抵抗にあっても」とも書かれている。
CIA1969年の計画文書【→http://kakujoho.net/ndata/us_jp.htmlや、日本が脅威を感じた際には核武装する手段と意志を持つことを示唆している他の多量の証拠を知っていた。CIAからアメリカの大統領たちに1960年から送られ始めたこの問題に関する報告書は、ジョンソンが1965年に佐藤栄作首相との間に交わした核の傘の約束を正当化し、支えるものとなった。CIAは、ジョンソン以降の大統領全てに、日本の核武装の可能性を伝えていた。しかし、その警告は、クリンチリバーの設備や研究結果の委譲に関わる細部を決定する官僚組織の実務者レベルにまで伝わることはほとんどなかった。

国防省を回避する

CIAは何十年も日本の核計画を疑っていた。CIANSANational Security Agency国家保全局】は定期的にアメリカの同盟国や敵国の情報を傍聴していた。何年にもわたって、CIAは日本は核武装する能力とそういう状況になれば核武装する意志を持っていることをずっと報告していた。
しかし1987年、ケネディが核機密と核材料の日本への貿易を推し進めていた時、CIAは蚊帳の外だった。皮肉にも、日本の核武装能力について最もよく知る組織であったCIAが、アメリカ内部の日本への核技術移譲の議論をほとんど知らされていなかったのだ。CIAは外国政府を監視する任務にあった。ライバル組織を密かに探ることを自制したことは一度もなかったが、CIAはケネディのクリンチリバー計画を日本へ移すという国内努力についてほとんど何も知らなかった。最終的にCIAは決定から外された。主な反対の声をあげたのは国防省(ペンタゴン)だった。
核兵器に使用可能なレベルのプルトニウムをヨーロッパから日本に輸送する間に、テロリストにハイジャックされることを国防省は懸念していたが、国、エネルギー省、ACDA【軍備管理軍縮局】は、日本にクリンチリバー計画をまるごと売りたがっていた。国防省のリ―ダーはFred Ikleで、レーガン政権の核計画の国防省次官だった。Ikleは、テロリスト攻撃を本当に憂慮していたが、更に心配していたのは、表面上の議論の裏に隠れた、政治的に好まれず、国防省の外では議論の俎上に上がらない問題だった。何年も、国防省の情報アナリストとCIAは、日本は恐るべき核兵器を製造する能力を持っていると信じていた。日本が技術力を持っていることを疑うものはいなかったが、Ikleと極小数の人間だけが日本が核武装する意志があることを確信していた。

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