アメリカ合衆国、法を曲げて日本のプルトニウム蓄積を援助⑥


201249日 National Security News ServiceNSNS)の記事、United States Circumvented Laws to Help Japan Accumulate Tons of Plutoniumを、今、金曜日の「英語で読むかい」で読んでいます。ネットにも、この記事の全訳はないので、毎回読んだところまで(連載で)みんなで考えた訳を掲載していきます。今回はその第六回です。原文はこちら



カーターの核ドクトリンは、プルトニウムベースの核サイクルを未来の核エネルギーと考えているアメリカのエリート科学者の間でまったく人気がなかった。彼らは、アメリカの好景気を失速させた、石炭による酸性雨、石油の禁輸や不足などの問題を原子力が解決してくれると考えていた。ほぼ無尽蔵の安くきれいな核エネルギーの供給により、アメリカは世界の経済のリーダーとしての地位を取り戻すことができると考えていた。しかし、多くの人々にとって核エネルギーはそれ以上のものを約束していた。もしアメリカが核燃料サイクル―つまり核の円環―を完成できたら、全人類は核エネルギーによって一段上の段階に進むことができると考えたのだ。国中の研究所やワシントンのIndependence通りにあるエネルギー省のForrestal Buildingでは、核増殖計画は熱狂的な高まりを見せていた。
もし増殖炉が世界の核経済に革命を起こすとしたら、アメリカ合衆国はそれをヨーロッパや日本の同盟国と共有しなければならないだろう。アメリカ合衆国の核関係者はそう考えた。情報の自由な交換こそが科学を支える土台であり、アメリカの科学者はヨーロッパや日本の同胞たちとオープンに情報を共有してきた。そうした協力は双方向で行われていた。増殖炉が困難な技術への挑戦だということがわかってきて、米国エネルギー省は、ドイツ、英国、フランスなど、アメリカと同じように増殖炉計画を行なってきた国々の失敗から学ぼうとしていた。カーターの政策は、しかし、アメリカのプルトニウムベースの核エネルギーサイクルの共有と開発を妨げたのだ。
核兵器や核エネルギーのロビイストが悔しがったのは、カーターが核ルネサンスのアイデアを放棄したことだ。カーター政権は核貿易を削減し、科学者たちの自由な情報の流れを邪魔した。Richard T. Kennedyや米国原子力規制委員会のBen Rusche、米国エネルギー省のHarry Bengelsdorfにとって、このような制限はとうてい受け入れられなかった。そこで、カーターの大統領選の敗北は核体制に新たな機会をもたらした。

逆コース レーガンによるカーター政策の一掃

Richard Kennedyは核信奉者のキャリア官僚だった。前の陸軍将校である彼は、原子力規制委員会で働いていたが、彼のカーター大統領の核政策への反対姿勢のために出世は考えられなかった。しかし1980年、ロナルド・レーガンの大統領就任によりその全てが変わった。レーガンが最初に行ったのは、アメリカが民間のプロジェクトのプルトニウム使用を禁じたカーターの核ドクトリンをひっくり返すことだった。
ケネディは核関連政策におけるレーガンの右腕となった。核エネルギーに関わる彼の新しいポストは、カーター政策の解体を指揮することだった。新政権はプルトニウムにおけるアメリカと世界への影響力を取り戻した。
しかし、カーターの遺産は、アメリカが国際的な核の商売に頭から飛び込んでいくのを妨げていた。カータが制定した1978年の原子力法は、外国によるアメリカ産の核材料の輸入とその使用の方法について厳しく制限していた。この法律では国境を超える全ての原子炉燃料の輸送に議会の承認を必要とすることになっていた。ケネディの自由な核商業ビジョンから見ると、この法律は我慢のならない妨害だった。彼はそれを巧みに回避するように動いた。
レーガン政権の初期、アメリカの核産業と核兵器産業に大量の資金が投入された。核弾頭設計と核増殖炉の難問解決にあたる核科学者たちには否応なしに多額の研究費が分配された。

クリンチ・リバーの増殖炉設計

テネシー州の風光明媚なクリンチリバー渓谷にあるエネルギー省のオークリッジ国立研究所の実験施設がこの計画の中心だった。アパラチア山脈の麓で、アメリカの優秀な科学者が増殖炉を組み立てた。この技術はとても将来性があった。発電しながら使用済み核燃料がプルトニウムに変換される。増殖炉は、核科学者たちにとっての“聖杯”となった。閉じた燃料円環は、ほぼ無尽蔵のエネルギー供給への扉を開く。クリンチリバー計画は科学技術の最先端だった。レーガン政権下で米国エネルギー省はこの計画に湯水のように資金を投入した。この計画は1980年から87年までに160億ドルを費やした。そして、それが始まった時と同じように突然、議会は資金投入を停止し計画は凍結した。
最善を尽くし、ほぼ無制限に予算を使ったにも関わらず、増殖炉計画は成功しなかった。しかしクリンチリバーチームだけが失敗したのではなかった。ドイツ、フランス、英国も実験段階から商用への移行に成功していなかった。それでもレーガンの新しい核兵器への努力は衰えることなかったが、80年代半ばの景気の減速で、軍需産業への予算が削減された。1987年、議会はクリンチリバーから資金を引き上げた。増殖炉をライフワークと考えている科学者とエネルギー省の官僚にとって、これは悲劇だった。計画に失敗し、国の援助を絶たれてもなお、彼らは原子力エネルギーサイクルの実現を信じていたのだ。

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